ココが桶狭間の合戦場でござる。

名古屋市緑区 桶狭間古戦場公園 織田信長 今川義元像 桶狭間の戦い The Battle of OKEHAZAMA (5)

織田信長 vs 今川義元


今から約450年前の永禄3年5月19日(1560年6月12日)と言えばの桶狭間の戦い。

25000人と言われる当時日本最大と言われる軍勢を率いて尾張に侵攻したのは駿河の巨大戦国大名 今川義元。迎え撃ったのはわずか3000人の兵力しかもたなかった尾張の小大名 織田信長。雹混じりの悪天候の中、天を味方につけた織田軍がちょうど戦力が分散していた今川義元本陣を急襲し、電光石火の如く織田家臣・毛利良勝が総大将・義元の首を討ち取って勝敗を決したという日本史上に残る有名な戦いであることは承知の通り。でも、その決戦の場所「桶狭間」が一体何処にあったのかを知る人は地元民でもない限り少ないはず。ってことで、年始に郷里・三重県に帰省した際、皆様になり変わって愛知県の桶狭間に寄ってボク自ら現地調査してまいりましたので、以下ご報告しますデス。

桶狭間周辺地図 okehazama_map

まずは上の地図をご覧下さい。桶狭間の戦い当時、桶狭間は愛知県名古屋市緑区と愛知県豊明市にまたがるかなり広い範囲の丘陵地だったようで、桶狭間の戦いに由来したとみられる地名・史跡・神社などが名古屋市緑区と豊明市の両方に散見され、実は今も今川義元が最期に討ち取られたとされる場所は特定されていません。で、おおよそではありますが、地図に記載された2か所、愛知県豊明市の「桶狭間古戦場伝説地」、そして名古屋市緑区の「桶狭間古戦場公園」がその有力な候補地として知られています。それ故にちと面倒ではありましたが、今回はその両方の候補地にお邪魔してきた次第デス。

桶狭間交差点 桶狭間の戦い The Battle of OKEHAZAMA (12)

コチラが「桶狭間」の交差点。

最寄駅は名鉄名古屋本線「有松駅」、駅よりこの桶狭間の交差点までは徒歩約5分といったとこでしょうか。桶狭間交差点を境に東に行くと愛知県豊明市の「桶狭間古戦場伝説地」、南に行くと名古屋市緑区の「桶狭間古戦場公園」となります。で、まずは交差点から東に徒歩15分ほどの愛知県豊明市「桶狭間古戦場伝説地」へ。

愛知県豊明市「桶狭間古戦場伝説地」桶狭間の戦い The Battle of OKEHAZAMA (4)

桶狭間古戦場伝説地

住所:愛知県豊明市栄町南舘11

因みにこちらは有松駅の隣駅になる名鉄名古屋本線「中京競馬場前」からなら徒歩5分の場所にあります。

言い伝えによれば、今川義元は永禄3年(1560年)5月12日に駿府を出発し、17日には配下にあった徳川家康(当時は松平元康)の領地岡崎へ。18日には沓掛城に入り、尾張攻めの準備を整えたとのこと。対して織田信長は5月19日未明幸若舞の敦盛を舞った後、主従わずかに6騎で清洲会議でも有名な清洲城を出陣し、熱田神宮にて戦勝を祈願。道中徐々に軍勢を増やし、合戦前にはなんとか3000人ほどが集まった程度でした。その頃、今川軍は難なく丸根・鷲津の砦を攻め落とし、義元の本陣にいた5000人は桶狭間の松林にて昼食の休憩をとっていました。ところがその折、天候が悪化、突然の夕立となったところへ太子ヶ根で密かに様子を伺っていた織田軍が雨が止むやいなや義元軍本陣を急襲。今川軍2500人、織田軍830人の犠牲をだしながらそのわずか2時間後、織田家臣・服部小平太が槍で今川義元(享年42歳)を刺し、毛利新助が後ろから組み付いて義元の首を取ったんだそうデス。その場所がまさにこの地ではないかということで桶狭間古戦場伝説地として存在しています。

なお、丸根・鷲津などの織田軍が作った砦は実は始めから今川軍を分散させることが狙いの囮の為の砦で、織田信長はその他にも鉄砲を使用するなど非常に知略を錬って今川軍を攻略したのではないかとも言われています。

愛知県豊明市「桶狭間古戦場伝説地」 桶狭間の戦い The Battle of OKEHAZAMA (3)

隣りの高徳院の竹やぶからの撮影。

今川義元がここで休憩していたような雰囲気がむんむん漂っていますよね。なお、この時間、見学者はボクたったひとりのようでしたが(滝汗)

桶狭弔古碑 愛知県豊明市「桶狭間古戦場伝説地」 桶狭間の戦い The Battle of OKEHAZAMA

桶狭弔古碑

1809年(文化6年)、津島の神官氷室豊長が建てた記念碑とされています。桶狭間古戦場が放置され荒れ果てていくのを嘆き、その由来を明らかにする為、この記念碑を建てたんだそうデス。書は大阪天満宮の中西融、撰文は尾張儒官秦鼎、石工は代々襲名している河内屋孫右衛門。

愛知県豊明市「桶狭間古戦場伝説地」 桶狭間の戦い The Battle of OKEHAZAMA (1)

今川治部大輔義元墓

明治9年、有松に在住した山口正義氏が建てたとされています。上の弔古碑が建てられたあと、今川義元の墓と間違える人が多かった為、改めて周辺を整備した上でこの墓碑を建造したそうデス。

愛知県豊明市「桶狭間古戦場伝説地」 桶狭間の戦い The Battle of OKEHAZAMA (2)

馬つなぎの社松

今川義元の馬をつないでいたねずの木という言い伝えがあります。後に紹介しますが、桶狭間古戦場公園のほうにも同様の馬つなぎの社松が存在します(謎)

以上が桶狭間の戦いの候補地、愛知県豊明市にある「桶狭間古戦場伝説地」でありました。

 

 

さて、続いてはもうひとつの候補地、有松駅から南へ徒歩約20分ほどの名古屋市緑区のほうにある「桶狭間古戦場公園」をレポートします。

名古屋市緑区 桶狭間古戦場公園 桶狭間の戦い The Battle of OKEHAZAMA (8)

桶狭間古戦場公園

住所:名古屋市緑区有松町桶狭間北3丁目

こちらは2010年に整備されたばかりの住宅街の中にある明るく解放された近代的な新しい公園でして、ご近所のママさんたちが多数ベビーカーを押してらっしゃいました。

名古屋市緑区 桶狭間古戦場公園 織田信長 今川義元像 桶狭間の戦い The Battle of OKEHAZAMA (6)

公園の中には織田信長(左)と今川義元(右)の像が仲良く並んでおりまして、こちらもそれらしき雰囲気が残ってます。

名古屋市緑区 桶狭間古戦場公園 桶狭間の戦い The Battle of OKEHAZAMA (11)

義元首洗いの泉

今川義元が本陣をこの地に置いた時、この泉の水を飲んで暑さをしのいだとも伝わります。また、毛利新助によって討ち取られた今川義元の首級がこの泉で洗われたとも伝えられています。

名古屋市緑区 桶狭間古戦場公園 桶狭間の戦い The Battle of OKEHAZAMA (7)

馬つなぎの社松

義元の馬がつながれていたねずの木デス。ねず塚にあったものを移植し今は枯木として残されているそうですが、桶狭間古戦場公園も負けてませんね。

名古屋市緑区 桶狭間古戦場公園 桶狭間の戦い The Battle of OKEHAZAMA (15)

左から今川義元戦死之地碑、今川義元墓、駿公墓碣(すんこうぼけつ)。

駿公墓碣はいつの時代に作られたモノであるかは不明ですが、田楽坪と呼ばれたこの地のねず塚から昭和28年に出土したとされており、この駿公墓碣が桶狭間古戦場公園の信憑性を高めたようデス。

名古屋市緑区 桶狭間古戦場公園 桶狭間の戦い案内 The Battle of OKEHAZAMA (9)

桶狭間の戦い案内

名古屋市緑区 桶狭間古戦場公園 桶狭間の戦い The Battle of OKEHAZAMA (10)

以上が桶狭間の戦いのもうひとつの候補地、名古屋市緑区にある「桶狭間古戦場公園」でした。

 

 

桶狭間の戦い 錦絵「桶狭間之戦」揚州周延(ようしゅうちかのぶ)画 (梶野 一 所蔵) 桶狭間古戦場保存会

錦絵「桶狭間之戦」
揚州周延(ようしゅうちかのぶ)画 (梶野 一 所蔵)
桶狭間古戦場保存会

今回「桶狭間古戦場伝説地」、そして「桶狭間古戦場公園」の両方の候補地に訪問いたしましたが、双方かけ離れた遠い場所にあるわけではなく、直線にすればとても近い距離にありますので、どちらが本当の場所であったかを決めるのは少々ナンセンスかなと思えるくらいデス。ま、兎にも角にも戦国時代の重要な転機となった桶狭間の合戦の地に立てたことで大満足でございました。ぜひ皆様も愛知県にお寄りの際はこの2つの地を訪れては如何でしょ?きっと何か感じるものがあるやもしれませんヨ。