会津若松・新潟の旅 vol.1 鶴ヶ城と白虎隊編。

会津若松 鶴ヶ城 auzuwakamatsu_tsurugajyo

そこは悲しい街でした。


眞鍋かをりに負けじと
男の春の一人旅第一弾として、

しかもオッサンのくせして
掟破りの青春18きっぷを
使って訪れた先は・・・

2013年NHK大河ドラマ
八重の桜』を鑑賞して以来、
ずっとお邪魔してみたかった
新島八重生誕の地 会津若松、

そして、石打丸山や上越国際
など、スキー場にしかまだ
行ったことのない新潟でした。

2月中旬の北海道 札幌
3月初めの石垣・小浜島に続く
内容濃すぎな2泊3日の旅、
第一弾の鶴ヶ城・白虎隊編を
史実含めてたっぷりどうぞ。

猪苗代スキー場

朝一の地下鉄に乗って、
猪苗代スキー場を横目に
最初の目的地・会津若松駅に
到着したのは昼過ぎ。

会津若松 八重の桜 山本覚馬 山本八重 新島八重 生誕の地 yae_yamamoto_kakuma_seitan

まず最初に訪れた場所が、
鶴ヶ城の西側近くにある

山本覚馬・新島八重 兄妹生誕の地。

もちろん既に武家屋敷はなく、
一般の民家となっています。

そして、会津と言えばの・・・

会津若松 鶴ヶ城 auzuwakamatsu_tsurugajyo

鶴ヶ城(つるがじょう)。

地元以外では若松城とも。

築城の名手・加藤嘉明の子である
加藤明成が現在の層塔型天守閣に
1611年に造り替えたそうデス。

野面積み 石垣 会津若松 鶴ヶ城 auzuwakamatsu_tsurugajyo

鶴ヶ城の石垣は野面積み。

これらは1590年代、
時の城主・蒲生氏郷氏によって
組まれた石垣だそうですが、
1611年の会津地震でも
倒壊しなかったとか。

会津若松 鶴ヶ城 auzuwakamatsu_tsurugajyo (4)

その後、加藤明成が改易されと、
第2代将軍 徳川秀忠の落胤で、
第3代将軍 徳川家光の異母弟こと
藩祖 保科正之が23万石で入封。

正之は15条に渡る会津藩の
家訓を遺して亡くなるのですが、
第4代将軍 徳川家綱の
後見人として大老役も勤め、
幕政をも統括していたことから
会津藩は徳川幕府を第一に
守護するようその最初の1条に
以下の言葉を書き並べています。

大君之儀、
一心大切可存忠勤。
不可以列国之例自処。
焉若懐二心則非我子孫、
面々決而不可従

大君の義、
一心大切に忠勤に存ずべく、
列国の例をもって自ら処するべからず。
若し二心を懐かば則ち我子孫にあらず、
面々決して従うべからず

幕末に会津藩主・松平容保が
京都守護職に就任し、最後まで
徳川幕府絶対の立場を貫いたのも
この第1条があったからこそに
ほかなりません。

そういった点を考慮すれば
会津藩は先祖代々から伝わる
家訓を守り通したという点で
評価されてしかるべきかと。

会津若松 鶴ヶ城 auzuwakamatsu_tsurugajyo

但し、そもそも会津藩は
士農工商の身分制度が明瞭で
農民らに厳しい年貢の取立てが
行われてきたことも事実。

浦賀の警備や蝦夷地への出兵、
トドメに京都守護職の就任など
幕府からの要請を断り切れず、
結果、重い年貢を農民たちに
課していたのでしょう。

八重の桜でも西田敏行扮する
老中 西郷頼母が必死になって
守護職の辞退を諫言したのも
会津の農民らのことを
思ってのことだったわけデス。

武士の家計簿』の著者
歴史家 磯田道史氏によると、

戊辰戦争で西軍(官軍)が
会津領地に攻め入った際、
積年の恨みがあってのことか、
会津の農民らの多くは
会津藩側ではなく、
西軍側の味方をしたんだそう。

そのあまりに酷い実情を
農民らから聞いた
西軍参謀・板垣退助はこの時、
民主政治の必要性を感じ取り、
今の日本の民主主義の礎と
言っていい自由民権運動を
指導する切欠になったそうデス。

PS.

原田伊織著書の
「明治維新という過ち」では
鶴ヶ城が開城した後、
会津領内五郡の農民ほぼ全てが
松平容保父子の助命嘆願書を
提出したと書かれている。

実は西軍(官軍)に与したと
される農民というのは、
「母成峠の戦い」で
西軍に家を利用させない為、
会津藩により家を焼き払われた
48戸の農民集落のことだそうで、
つまり西軍に肩入れしたのは
ごく一部だったとのこと。

会津若松 鶴ヶ城 auzuwakamatsu_tsurugajyo

天守閣最上階からは城下も一望。

因みに鶴ヶ城は珍しい赤瓦。

西軍(官軍)砲陣跡 会津若松 鶴ヶ城 auzuwakamatsu_tsurugajyo

戊辰戦争の際、
西軍(官軍)からの砲撃で
鶴ヶ城は壊滅的な被害を
受けたわけですが、
その西軍の砲撃場所が城の東側
1.6kmも離れた小田山から。

天守閣から見ると、
相当に離れた場所なんですが、
西軍のアームストロング砲の
射程距離は2,000m以上とかで、
十分届く距離だったそうデス。

飯盛山 白虎隊殉難の地 会津若松 鶴ヶ城 auzuwakamatsu_tsurugajyo

そして、もう一つの見所は
鶴ヶ城の北東にある飯盛山。

この飯盛山の中腹にて
1868年10月8日、
白虎隊の悲劇が起こりました。

その詳しい話はまた後ほど。

で、続いて向かった先が、
北門を出てすぐの所にある、、、

会津若松 西郷頼母邸跡

西郷頼母邸跡。

ここでも悲劇が起こります。

家老職にあった西郷頼母は
一人京都守護職就任に反対し、
さらに戊辰戦争では
西軍への恭順を説いていた為、
ついに藩での居場所がなくなり、
嫡男・吉十郎一人だけを連れて、
会津を出奔してしまいます。

主人と嫡男を失い、
いよいよ西軍が
会津城下に迫ってくる中、
取り残された西郷家一族21名は
新政府軍の捕虜として辱めを
受けることを潔しとせずとした
妻・千重子の決断により
この地にあった屋敷内にて
21名全員が自害するという
悲劇を生んでいます。

因みに西郷頼母一族同様に
この時、自刃又は戦死した
会津藩武家の婦女子は
200名を越えていたとか(涙)

宮泉 会津若松

火の海と化した城下町も
今は美しく整備されてます。

続いて周遊バスで移動し、、、

飯盛山 白虎隊殉難の地 会津若松

白虎隊の悲劇を生んだ
飯盛山の麓「飯盛山下」へ。

石階段もしくは
有料のエスカレーターで
中腹まで上がることが可能デス。

因みにほとんどの方は
階段を歩いて登ってました。

飯盛山 白虎隊殉難の地 会津若松

飯盛山下から徒歩10分ほどで
白虎隊殉難の地に到着。

案内板には以下のように説明。

1868年10月8日、年齢が16-17歳で構成された士中二番隊の白虎隊士は猪苗代から十六橋を越えて進撃した西軍と戸の口原で交戦するも敵の軍事力に圧倒されて退き、戸の口洞門をくぐってこの地に至った。

炎上する城下を前に、玉砕か帰城かを巡って、激論を戦わした。敵陣突入を提案する者もいれば、鶴ヶ城が簡単にらくじょうするはずはないとして帰城を主張する者もいた。しかし、最終的に「誤って敵に捉えられる屈辱を受けるような事があれば、主君に対して大変申し訳なく、祖先に対しても申し訳ない。この場は潔く自刃し、武士の本分を明らかにするべき」との決断にはじめて、全員が同意し、一同列座し南鶴ヶ城に向かって訣別の意を表し、全員が自刃した。

後、1名が蘇生。その名は飯沼貞吉である。なお、鶴ヶ城開城はその1カ月後であった。

2011年9月23日 白虎隊の会

飯盛山から鶴ヶ城を望む 白虎隊殉難の地 会津若松

殉難の地から鶴ヶ城を望む。

白虎十九隊士墓 飯盛山 白虎隊殉難の地 会津若松

白虎十九隊士墓。

会津は朝敵とされていた為、
白虎隊19名の遺体にも
埋葬許可が下りずに
そのまま山に放置され、
酷い有り様だったそうです。

合掌。

戸ノ口堰洞穴

戸ノ口堰洞穴。

さて、どうして
悲劇の白虎隊が飯盛山に
集結することになったのか、
その理由を説明しますと、

白虎隊を含む会津軍は
山向こうの戸ノ口原で
西軍と交戦するも
圧倒的な西軍の武力を前に
退却を余儀なくされます。

そして、

飯盛山の中腹に通じていた
長さ150mのこの洞穴を潜って
撤退してきたんですが、
既に城下は西軍に囲まれ火の海、
鶴ヶ城へ帰城することも敵わず、
若き白虎隊はこの場所で武士の
本懐を遂げたというわけです。

以上、鶴ヶ城と白虎隊が
象徴的な城下町・会津若松、
今では何事もなかったように
静かで平和な街に
生まれ変わっています。

新潟編 】に続く。

会津若松・新潟の旅 vol.1 鶴ヶ城と白虎隊編。
会津若松・新潟の旅 vol.2 朱鷺メッセ編。
会津若松・新潟の旅 vol.3 ぽんしゅ館編。