歴史探訪:忠臣蔵 第1弾、事件の発端となった『松之大廊下』と『浅野内匠頭終焉の地』

江戸城本丸御殿松の大廊下跡

『松之大廊下』跡地


さて、先日は『江戸城って何処にあったの?』にて、現在の皇居の東側『皇居東御苑』に江戸城本丸御殿が存在していたことをご理解頂いたと思うのですが、その江戸城本丸御殿において夙に有名な史跡が冒頭のそれ。

仮名手本忠臣蔵(元禄赤穂事件)において赤穂藩主・浅野内匠頭(あさのたくみのかみ・33歳)が高家旗本の吉良上野介(きらこうずけのすけ・60歳)に斬り掛った刃傷事件のまさに現場デス。

浅野内匠頭を取り押さえた旗本 梶川頼照の『殿中でござる!殿中でござる!』の台詞でも有名ですよね。

江戸城本丸御殿松の大廊下跡 (2)

※『松之大廊下』
廊下に沿った襖に松と千鳥の絵が描かれていたことから「松之大廊下」と称されたそうで、現場跡地に生えている松の木は関係ありません。

で、なんでこんな事件が起きたかと申しますと、事の起こりは勅使(天皇からの使い)の接待役をお上より仰せつかっていた赤穂藩主・浅野内匠頭は、高家筆頭の吉良上野介にその作法を教わります。ところが、吉良上野介は指導料として浅野内匠頭から十分な賄賂が提供されなかったことで浅野内匠頭に対して度重なる意地悪を行ないます。

そして、吉良からの度重なる意地悪に耐えかねた浅野内匠頭はついに堪忍袋の緒が切れて、元禄14年3月14日(1701年4月21日)午前10時頃、この松の大廊下にて吉良上野介の背後から

「この間の遺恨覚えたるかーッ!」

と叫んだ上で吉良に斬り掛ってしまうのです。

がしかし、吉良は背中と額を斬られたものの一命を取り留め、浅野内匠頭はその場で取り押さえられてしまいます。

結局この松の大廊下での刃傷事件によって、浅野内匠頭は5代将軍徳川綱吉の命により即日切腹、赤穂藩はお取潰しという厳罰処分を受けることに。対して吉良上野介は一切のお咎めなしという喧嘩両成敗を考慮しない結果に。

浅野内匠頭終焉の地 石碑

浅野内匠頭終焉の地の石碑
※東京都港区新橋4丁目交差点付近

梶川頼照によって取り押さえられた浅野内匠頭はその後、この石碑の場所にあった陸奥岩沼藩主 田村建顕の屋敷にて一時預かりとなるものの結局この田村邸の庭先にて無念の切腹となりました。

浅野内匠頭は最期にこんな辞世を詠んだそうです。

『風さそふ 花よりもなほ 我はまた 春の名残を いかにとやせん』

【意味】風を誘って散る桜の花よりも急いで人生を終わろうとしている私はこの無念をどうしたらいいのだろうか。

切腹後、田村家から知らせを受けた浅野家家臣達が浅野内匠頭の遺体を引き取り、彼らによって高輪泉岳寺に埋葬されます。

そして、そのおよそ1年後、そのあまりの主君浅野内匠頭の無念を晴らすべく、遺臣であった播磨赤穂藩筆頭家老の大石内蔵助以下、赤穂浪士47名は元禄15年12月15日深夜4時ごろ現在の墨田区両国にあった吉良屋敷に討ち入りし、吉良上野介を家人や警護の者もろとも殺害する元禄赤穂事件へと発展するのでした。

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