孤独の巡礼 浅草の浅草寺。

浅草浅草寺 asakusa sensoji(1)

2014.12.30 浅草にて。


毎日がお正月気分な浅草寺デス。

心残りはご朱印帳を忘れたこと(涙)

浅草 人力車 asakusa (2)

浅草の街を走りまくってる人力車。

浅草 asakusa (3)

仲見世通り。

表参道にあるこの仲見世通りの前身は
1685年に出来あがったんだとか。

浅草 浅草寺 asakusa_sensoji

浅草寺と言えばの雷門。

浅草浅草寺 asakusa sensoji(2)

asakusa sensoji(3)

宝蔵門。

浅草浅草寺 asakusa sensoji(4)

宝蔵門を裏から見た画。

浅草浅草寺 asakusa sensoji(5)

NHKの下げ札をつけてることは
「ゆく年くる年」の撮影スタッフかな?

浅草浅草寺 五重塔とスカイツリー asakusa sensoji(6)

五重塔とスカイツリー。

浅草浅草寺 asakusa sensoji(7)

浅草浅草寺 五重塔 asakusa sensoji(8)

五重塔が建てられたのは1648年。

浅草 asakusa (14)

浅草 asakusa (16)

浅草 asakusa (13)

浅草 asakusa (15)

浅草松屋 asakusa (18)

松屋浅草。

浅草 牡蠣小屋 海賊船 asakusa (17)

牡蠣小屋 海賊船。

この店の名物 牡蠣の食べ放題は

まさに死闘でありました(汗)

浅草 asakusa (11)

浅草 人力車 asakusa (20)

浅草 人力車 asakusa (19)

浅草から見るスカイツリー (27)

伝法院通り。

 小舟町提灯 asakusa sensoji(9)

夜の浅草寺。

 吽形の仁王像 浅草浅草寺 asakusa sensoji(10)

宝蔵門に立つ吽形の仁王像。

浅草浅草寺 asakusa sensoji(12)

浅草浅草寺 五重塔 asakusa sensoji(11)

浅草浅草寺 asakusa sensoji(13)

浅草浅草寺 asakusa sensoji(14)

ご利益。ご利益。

 

浅草 浅草寺の歴史

以下、wikipediaより抜粋

創建 – 平安時代

『浅草寺縁起』等にみえる伝承によると、浅草寺の草創の由来は以下のとおりである。
推古天皇36年(628年)、宮戸川(現・隅田川)で漁をしていた檜前浜成・竹成(ひのくまのはまなり・たけなり)兄弟の網にかかった仏像があった。これが浅草寺本尊の聖観音(しょうかんのん)像である。この像を拝した兄弟の主人・土師中知(はじのなかとも、「土師真中知」(はじのまなかち)とも)は出家し、自宅を寺に改めて供養した。これが浅草寺の始まりという。その後大化元年(645年)、勝海上人という僧が寺を整備し観音の夢告により本尊を秘仏と定めた。観音像は高さ1寸8分(約5.5センチ)の金色の像と伝わるが、公開されることのない秘仏のためその実体は明らかでない。平安時代初期の天安元年(857年。天長5年(828年)とも)、延暦寺の僧・円仁(慈覚大師)が来寺して「お前立ち」(秘仏の代わりに人々が拝むための像)の観音像を造ったという。これらを機に浅草寺では勝海を開基、円仁を中興開山と称している。天慶5年(942年)、安房守平公雅が武蔵守に任ぜられた際に七堂伽藍を整備したとの伝えがあり、雷門、仁王門(現・宝蔵門)などはこの時の創建といわれる。一説に、本尊の聖観音像は、現在の埼玉東京の県境に近い飯能市岩淵にある成木川沿いにある岩井堂に安置されていた観音像が大水で流されたものとする伝承がある。

中世 – 近世

浅草寺の文献上の初見は鎌倉時代の『吾妻鏡』である。同書によれば、治承5年(1181年)、鎌倉の鶴岡八幡宮造営に際し、浅草から宮大工を呼び寄せている。また、建久3年(1192年)、鎌倉の勝長寿院で後白河法皇の四十九日法要が営まれた際、浅草寺の僧が参加している。後深草院二条の『とはずがたり』には、彼女が正応3年(1290年)浅草寺に参詣した時の様子が描写されている。
天正18年(1590年)、江戸に入府した徳川家康は浅草寺を祈願所と定め、寺領五百石を与えた。浅草寺の伽藍は中世以前にもたびたび焼失し、近世に入ってからは寛永8年(1631年)、同19年(1642年)に相次いで焼失したが、3代将軍徳川家光の援助により、慶安元年(1648年)に五重塔、同2年(1649年)に本堂が再建された。このように徳川将軍家に重んじられた浅草寺は観音霊場として多くの参詣者を集めた。
貞享2年(1685年)には、表参道に「仲見世」の前身である商店が設けられた。これは、寺が近隣住民に境内の清掃を役務として課す見返りに開業を許可したものである。江戸時代中期になると、境内西側奥の通称「奥山」と呼ばれる区域では大道芸などが行われるようになり、境内は庶民の娯楽の場となった。天保13年(1842年)から翌年にかけて、江戸三座の芝居小屋が浅草聖天町(猿若町、現・台東区浅草六丁目)に移転し、そうした傾向はさらに強まった。

近代

関東大震災直後。仲見世は全焼したが、境内は被害を免れた。
浅草は近代以降も庶民の盛り場、娯楽場として発達し浅草寺はそのシンボル的存在であった。明治6年(1873年)には境内が公園地に指定され、明治18年(1885年12月27日)には表参道両側の「仲見世」が近代的な煉瓦造の建物に生まれ変わった。明治23年(1890年)には商業施設と展望塔を兼ねた12階建ての「凌雲閣」(通称「浅草十二階」)が完成している。
大正6年(1917年)からは日本語の喜歌劇である「浅草オペラ」の上演が始まり、映画が普及する以前の大衆演劇として隆盛した。関東大震災では浅草区は大半が焼失する被害にもかかわらず、避難民の協力によって境内は一部建築物が延焼するだけの被害で済んでいる。しかし昭和20年(1945年)3月10日、東京大空襲で旧国宝の本堂(観音堂)、五重塔などが焼失。第二次世界大戦後の浅草は、娯楽の多様化や東京都内の他の盛り場の発展などによって一時衰退した。しかし、地元商店街のPR活動等によってかつての賑わいを取り戻しつつあり、下町情緒を残す街として東京の代表的な観光地となっており、羽子板市、ほおずき市などの年中行事は多くの人出で賑わっている。
2014年6月11日、浅草寺に存在する仏像がサウジアラビア人に破壊されるという事件が発生した。犯人は慶應義塾大学大学院に通う学生。浅草寺の敷地内に置かれている仏像4体が、ひびが入るなどといった形で破壊された。