ナノ・ユニバースのバッグインバッグ。

ナノ・ユニバース nano・universe バッグインバッグ MonoMax モノマックス 2015年12月号

また来たオマケ!笑


MonoMax2014年2月号の付録だった
BEAMS LIGHTのバッグインバッグが
そろそろお釈迦になってきた頃、

絶妙のタイミングで、
今度はナノ・ユニバースの
黒のバッグインバッグが付いてきた。

モノマックス恐るべし!

「眉毛を読まれる」とは
まさにこのことを言うのかも(笑)

ビームスライト バッグインバッグ MonoMax モノマックス 2014年2月号付録 BEAMS (2)

で、これが1年以上使用してきた
BEAMS LIGHTのバッグインバッグ。

BEAMS (1)

伊東屋のリングノート
ガルーシャテイルのシステム手帳
しっかり守ってくれてます。

まだイケそうな雰囲気ですが、
実際は相当へたってます(涙)

因みに過去手に入れた
モノマックスの付録はコチラ。

MonoMax2015年9月号
アーバンリサーチ「みだしなみセット」

MonoMax2015年10月号
アニエス・ベー「万年筆」

MonoMax2015年11月号
オロビアンコ「名刺入れ」

PS.

昭和の三傑
憲法九条は「救国のトリック」だった
著者:堤 堯

一昨日コチラの記事の追伸で書いた
名宰相 鈴木貫太郎編の続きデス。

さて、二・二六事件において
鈴木は九死に一生を得たのだが、

この事件の結果、
昭和天皇も歯止めが効かないほど、
軍部の影響力は強大となり、
メディアや世論の後押しもあって
1941年12月8日未明、
陸軍第25軍司令官山下奉文による
マレー作戦を皮切りに、
少し遅れて海軍の真珠湾攻撃が始まり、
ついに米英との戦争に突入する。

戦況はご存じの通り、
1942年6月5日に始まった
ミッドウェー海戦の惨敗を境に
日本は敗北へ向かって坂を転げ落ちる。

1945年4月初め、
戦況悪化の責任をとり辞職した
小磯國昭前首相の後継を決める
重臣会議において、

当時枢密院議長に就任していた
鈴木は首相に推薦されるも、
「とんでもない話だ。お断りする。」
と激しく固辞する。

固辞するのも当たり前である。
既に77才の平均寿命を遥か生きた
いつ死んでもおかしくない年齢の
お爺ちゃんなのであるから。

その直後、鈴木は天皇に呼び出され、
首相就任、組閣の大命を下されるも、
元々海軍軍令部長まで上り詰めた
経験のある軍人出身の鈴木は、
しかも当時海軍では「鬼貫」とも
仇名された猛者だった鈴木は、

「軍人が政治に出るのは国を滅ぼす基なり」

と、やはり固辞する。

しかし、昭和天皇は以下の通り
鈴木に対して懇願する。

「鈴木の心境はよくわかる。
しかし、この重大なときにあたって、
もうほかに人はいない。頼むから、
どうか曲げて承知してもらいたい。」

かつて侍従長として
天皇に仕えたことのある
鈴木は天皇に「頼む」とまで
頭を下げられれば、
もはやそれ以上
固辞することは出来なかった。

大命降下のその夜、
「俺はこれからパドリオになる。」と
鈴木は息子の一氏に洩らしている。

パドリオとはムッソリーニ失脚後の
1943年にイタリア首相となり、
日独伊三国同盟を破棄し、
連合国側と休戦、
逆に対独宣戦をしたという
日本やドイツからすれば
裏切り者の政治家の名前である。

4月7日の就任当時から鈴木は、
戦争終結を目指すつもりであり、
「首相、皇族をはじめ、
自分たちの間では和平より道は
もうないという事に決まって居る」
と、安倍源基内務大臣も
その決意を語っている。

鈴木は、非国会議員、
江戸時代生まれという二つの点で
首相を務めた最後の人物となった。
また満77歳2ヶ月での就任は
2015年現在、日本の総理大臣の
就任年齢では最高齢の記録である。

鈴木は首相就任にあたり、
以下のように表明した。

今日、私に大命が降下いたしました以上、
私は私の最後のご奉公と考えますると同時に、
まず私が一億国民諸君の真っ先に立って、
死に花を咲かす。

国民諸君は、私の屍を踏み越えて、
国運の打開に邁進されることを
確信いたしまして、
謹んで拝受いたしたのであります。

首相就任から間もなくの4月12日、
米国ルーズベルト前大統領死去。

鈴木貫太郎は、この報に接すると、
短波放送で次のメッセージを送った。

「私は深い哀悼の意を
アメリカ国民に送るものであります」

ルーズベルトの死を罵った
ヒ〇ラーとは対照的だった。

アメリカに亡命していた
ドイツ人作家トーマス・マンは、
「ドイツ国民よ、東洋の騎士道を見よ」
と題して声明を発表し、
ニューヨークタイムズなどでも
大きく報じられ、
鈴木の行動は各国で賞賛された。

鈴木は当初日ソ中立条約を結んでいた
ソ連のスターリンに米英との
講和の仲介を働きかけていた。

しかし、一方でスターリンは、
7月17日から戦後処理の為に
開催されたポツダム会談において
米トルーマン大統領に
日本から終戦の仲介依頼が
あったことを明かし、
さらに日本をあやす為
「ソ連の斡旋に脈があると
信じさせるのがよい」と提案、
トルーマンもこれに同意していた。

7月27日、米国大統領、英国首相、
中華民国主席の名において
「日本軍の無条件降伏」等を求めた
全13か条から成るポツダム宣言が
日本に対して発せられる。

このポツダム宣言に対して日本は
天皇の処遇が明確でなかった為、
また内外の、特に陸軍の反応を見る為、
「しばらくそっとしておく」つまり、
音なしの構えで臨むこととなった。

ところが、
陸軍の強硬派がそれを許さず、
ポツダム宣言拒否を迫って、
鈴木に会見を強要してきたのだ。

仕方なく鈴木は記者会見に臨む。
本来は「ノーコメント」と
回答したかったものの
当時は敵性語禁止の世であった為、
「重視する要なきものと思う。」
というような曖昧な意味を答弁した。

この曖昧な発言が災いし、
翌日の朝刊で朝日新聞の「黙殺」、
読売・毎日新聞による「笑止」
といった別の言葉で報じられ、

その言葉を連合国側は
「reject(拒絶)」と受け取り
広島と長崎への原爆投下、
さらにはソ連の参戦を招いたとして、
鈴木は「愚図の宰相」という
不名誉な呼び名を頂戴してしまう。

鈴木はこの曖昧な発言を
後々に至るまで、
余の誠に遺憾と思う点であると
無念の思いを語っているが、

そもそも無条件降伏など
日本が到底受け入れるわけがない、
とする米国側の思惑があり、
実際には広島、長崎への原爆投下を
何が何でも実行することを
狙ったものと言われている。

二発の原発とソ連の参戦、
これを機に、ついに鈴木は
これ以上の陸軍の暴走を止め、
本土決戦による日本国民
一億総玉砕となってしまう前に
何としてでも戦争を終結させようと
乾坤一擲の大芝居にでるのであった。

(つづく)