MOTOのコードバンを磨く。

モト コードバン プレーントゥ MOTO_plain_toe (1)

お馴染みの MOTO デス。


購入後3年6か月を経過。

メインテナンスを
すっかり怠ってまして、
気が付けば1年半放置プレー。

モト コードバン プレーントゥ MOTO_plain_toe (4)

で、久しぶりにM.モゥブレィ
アニリンカーフクリーム
で、
磨いてやりました。

モト コードバン プレーントゥ MOTO_plain_toe (2)

がしかし、

素人感丸出しの仕上り。

地味な艶しか出てません(涙)

MOTO_plain_toe (3) モト コードバン プレーントゥ

また色抜けしてる部分に
サフィールの捕色クリーム
塗ってやろうかと思いましたが、

コチラの記事でご報告したように
ワイルドスワンズのコードバン
実験大失敗に終わってますので、
さすがに躊躇しているところ。

とりあえず色に関しては、
しばらく放置プレーで臨みます。

PS.

昭和の三傑
憲法九条は「救国のトリック」だった
著者:堤 堯

コチラコチラの記事で書いた
名宰相 鈴木貫太郎編の最終章デス。

二発の原発投下とソ連の参戦。

日本絶体絶命、それでもなお
大本営、メディア、日本国民は、
一億総玉砕してでも本土決戦で
名誉の死を選ぶ声が強かった。

著者の堤堯も周囲の大人たちが
本土決戦、一億総玉砕を叫ぶ中、
子供ながらに疎開先の仙台で
死を覚悟していたというから
異常な時勢であったという他ない。

しかし、鈴木はこれを機に
陸軍の暴走に歯止めをかけ、
迫りくる本土決戦による
一億総玉砕を食い止める為に
何としてでも戦争を終結させようと
乾坤一擲の大芝居にでるのであった。

それは、かつて侍従長と侍従武官、
ともに天皇を支えた関係にあった
陸軍大臣 阿南惟畿との二人羽織と
ご聖断の演出と言われる策である。

Korechika_Anami 阿南惟畿

陸軍大臣 阿南惟畿

8月10日未明から行われる
天皇臨席での最高戦争指導会議前に
阿南が自ら陸軍大臣を辞職すれば、
瞬時に鈴木内閣は瓦解となって
ポツダム宣言受諾は実現せず、
戦争は自動的に継続のはずだった。

しかし、阿南陸相は
戦争継続を強硬に訴えながらも
決して辞職をしようとしない。

それは陸軍強硬派を
抑える為の阿南の腹芸であり、
暗黙裏に鈴木の和平工作に同調し、
戦争終結を目指していた所以だと
著者の堤堯は想像する。

そして、8月10日0時3分
いよいよ御前会議が開始される。
出席者は天皇以外に以下の7人。

鈴木貫太郎首相
東郷茂徳外務大臣
阿南惟畿陸軍相
米内光政海軍相
梅津美治郎参謀総長
豊田副武軍令部総長
平沼騏一郎枢密院議長

「ポツダム宣言」受諾の条件に
国体護持の条件を付けることには
出席者全員が賛同するものの

東郷外相は他の条件を付ければ
連合国側に拒絶される可能性高いと
「国体護持」のみの条件を提案。

対して阿南陸相、梅津参謀総長、
豊田軍令部総長の3人は、
「国体護持」以外に、
領土・占領・武装解除・戦犯の
処分に対しての条件を求めた。

最終的に採決で決めることとなる。

東郷案賛成は、東郷・米内・平沼の3票。
東郷案反対は、阿南・梅津・豊田の3票。

ここで鈴木が東郷案賛成とすれば
ポツダム宣言受託が決定となる。

しかし、それだと間違いなく、
陸軍強硬派による反乱が発生する。
よって、鈴木は自分の票で
決定を下すことをしなかった。

10日午前2時頃、鈴木は起立し、
以下の言葉を述べた。

誠に以って
畏多い極みでありますが、
これより私が御前に出て、
思召しを御伺いし、
聖慮を以って本会議の決定と
致したいと存じます。

なんとご聖断を仰いだのだ。

そして、昭和天皇は涙ながらに答えた。

朕の意見は、
先ほどから外務大臣の
申しているところに同意である。

東郷案に賛意を示され決着する。

しかしまだ予断は許されなかった。

日本政府による
国体護持の要請に対して、
連合国側は以下の回答を示した。

「天皇および日本政府の国家統治の権限は、連合国最高司令官に従う (subject to) ものとする」

外務省はこの文章を
「制限の下に置かれる」と訳し、
あくまで終戦を進めようとしたが、
陸軍では「隷属するものとす」とし、
天皇の地位が保証されていないとして
戦争続行を唱える声が多半を占めた。

同日午後3時から開催された閣議
および翌13日午前9時からの
最高戦争指導会議では議論が紛糾。

その間、阿南は若手将校たちより
クーデターへの賛同を求められるが、
阿南、梅津ともに計画に反対する。

その危機を察知した鈴木は、
再び昭和天皇にご聖断を要請する。

8月14日、再び御前会議が招集され、
天皇は連合国の回答受諾を是認し、
ついに日本の無条件降伏が
決定したのだった。

その御前会議の後、
紙に包んだ葉巻の束を手に阿南が
鈴木のもとに挨拶にやってきた。
そして、鈴木にこう述べたという。

終戦についての議論が
起こりまして以来、
私は陸軍の意見を代表し、
強硬な意見ばかりいい、
お助けしなければならないはずの総理に対し、
いろいろご迷惑をかけてしまいました。
ここに慎んでお詫びいたします。

ですがこれも国と陛下を思ってのことで、
他意はございませんことをご理解ください。
この葉巻は前線から届いたものであります。
私は嗜みませんので、
閣下がお好きと聞き持参いたしました。

その阿南を見送った鈴木は、
「阿南君はいとま乞いに来たんだねえ。」
と、ひとこと呟いた。

翌日8月15日未明、阿南惟幾は
以下の遺書の言葉を残し自刃する。

「一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル 昭和二十年八月十四日夜 陸軍大臣 阿南惟幾 神州不滅ヲ確信シツツ」

辞世の句は、「大君の深き恵に浴みし身は 言ひ遺こすへき片言もなし」。

同日8月15日の早朝、
案の定、佐々木武雄陸軍大尉を
中心とする国粋主義者達が企てた
クーデター「宮城事件」が発生し、
鈴木のいた総理官邸
及び私邸までも襲撃され、
間一髪のところを救い出される。

同日正午、
昭和天皇の朗読による
終戦の詔勅がラジオで放送された。

同日午後、
鈴木は天皇に辞表を提出し、
鈴木内閣は安堵のうちに総辞職した。

それから3年後の
1948年4月17日、
鈴木貫太郎、肝臓ガンで死去。
(享年81歳)

鈴木は死の直前、
「永遠の平和、永遠の平和」と、
非常にはっきりした声で
二度繰り返したという。

また、遺灰の中に
二・二六事件の時に受けた弾丸が
混ざっていたとも言われる。

鈴木と阿南、
二人の不退転の覚悟が、
数多の命を救い、
分断国家になることから寸前、
日本を救ったと著者の堤堯は言う。

そして、鈴木貫太郎首相は
決して「愚図の宰相」なんかでは
なかったと強く著者は主張する。

PS2.

日本橋浜町に「スコット」という
フレンチレストランがあるのだが、
海軍ゆかりのレストランだそうで、

「慈故能勇 大正五年秋 鈴木貫太郎」

という鈴木の書の掛け軸があるそう。
ぜひ一度、お邪魔してみたいと思う。

幣原喜重郎編につづく)