美・スタンドカラーコートで一休み。

LEON_201601COVER レオン 2016年1月号 表紙

LEON 1月号より


その一手が貴兄の装いを
格上げします。

コレがお洒落の名脇役。

LEON_201601_THEORY レオン 2016年1月号 セオリー

ってことで、
中でもこのド・シンプルな
Theory(セオリー)のコートに
究極の侘び寂感じた次第デス。

コレっくらい引き算された
スタンドカラーコートなら
きっと100年飽きないかも?

TAGLIATORE(タリアトーレ)
シングルチェスターコートの
次に買い足したい気分デス。

PS.

続いて頓智で名高い一休さんの
あまり知られていない
晩年に関してのお話デス。

一休さんこと一休宗純は、
南北朝時代に終止符を打った
後小松天皇の落胤と言われ、
藤原一族である日野中納言の娘
伊予の局が母とされている。

父の後小松天皇に似たのか、
かなりの好色家だったらしく、
妻も亡くして
暫く経った76歳の時、
住吉薬師堂で鼓を打つ
盲目の美人旅芸人 森侍者と
運命的な出会いを果たし、
50歳近い年齢差が
あったにも拘わらず、

「その美しい笑窪の寝顔を見ると、
腸もはちぎれんばかり・・・
楊貴妃かくあらん。」と
詩集『狂雲集』に
想いを残すほど溺愛し、
一休が他界するまでの約10年間、
2人は酬恩庵で同棲生活を送る。

途中80歳の時に
応仁の乱で炎上した
京都・大徳寺復興の為に、
天皇の勅命で
第47代の住職に任ぜられるも、
大徳寺には決して住もうとせず、
彼女の住む酬恩庵から
わざわざ通ったと言う。

そして、87歳の時、
マラリアに感染し、
弟子たちに見守られながら。
最期の時を迎えることになるのだが、
臨終の言葉は、、、

「死にとうない!」

しかも彼女に面と向かって、
力を込めて言い放ったと言う。

「人生とは冥土までの暇つぶし」
と詠んで遺した平泉・中尊寺の
今東光大僧正にしても、
この「死にとうない」と語った
一休和尚のその言葉の裏は、
計り兼ねるとのことだった。

まだ愛し足りなかったのか。

また一休和尚は、他界する直前、
「この先、どうしても手に
負えぬ深刻な事態が起きたら、
この手紙を開けなさい。」と、
弟子たちに1通の手紙を遺した。

それから数年後、
弟子たちに今こそ師の知恵が
必要という重大な局面が訪れ、
固唾を呑んで開封した手紙に
書かれていたのは、
次の言葉だったそう。

「大丈夫。心配するな、何とかなる」

これぞ悟りの境地である(笑)

因みに「死にとうない」と
臨終の言葉を遺した僧が
もうひとりいらっしゃいます。

海賊とよばれた男こと
出光興産の創業者 出光佐三が
その描く絵をこよなく愛した
仙厓義梵
(1750年4月 – 1837年11月4日)

その破天荒なまでの生き様と
お互い同じ87歳という長寿で
人生を全うしたことからすると
仙厓和尚は一休和尚の生まれ変わり?
だったのかもしれませんね。