やってみなはれ みとくんなはれ。

やってみなはれ みとくんなはれ。 開高健 山口瞳 ken_kaiko_hitomi_yamaguchi

表紙のイラストは柳原良平作。


1969年当時、
サントリー宣伝部に
所属していた小説家でもあり、
コピーライターでもあった
開高健山口瞳が綴った
冒頭表紙のサントリー70年史、

やってみなはれ
みとくんなはれ

を楽しく読了することが出来た。

戦前編を直木賞作家 山口瞳が、
戦後編を芥川賞作家 開高健が、
サントリーの前身となる
寿屋創業時代を知るOB社員に
直接インタビュー取材を行い、

そこで得られた詳細な社史を
両名が綴るという豪華リレーだ。
面白くないわけがない。

特に興味深いのは
同じ社の同じ時代の
同じ宣伝部に所属していながら
天才二人の書く文体には
相当な違いが見受けられ、

山口瞳のそれは
自然に言葉が頭に入る
シンプルで分かり易い文章だ。

対して開高健のそれは
難解な比喩が多数散りばめられ、
理解するのに時間を要するも
ほんのりユーモアが香っている。

例えば開高が担当した
戦後編の冒頭の文章はこうだ。

数年、国破れて山河あった。

太平洋戦争敗戦、
米軍の度重なる空爆で
大阪の街が焼け野原となった。

それ故、建物が無くなったことで、
遠くにあった山や川、
海でさえも見渡せたことから
このような表現がなされた。

もちろん杜甫の『春望』にある
「国破れて山河あり」を
引用したものと思われるが、

ホンマに戦争負けると
杜甫さんの言う通り
山河だけが残ってるんやで~、
杜甫さんマジ凄いやっちゃなあ、
と、開高は驚きと笑いを交えて
こう言いたかったのであろう。

なんとも開高らしいユーモア
溢れる冒頭の一文ではないか。

さらに興味深いのが、
戦前編の文章は間違いなく
山口瞳自身が書いているのだが、
開高の書いたはずの戦後編は
途中から開高でない別人が
書いているようなのだ。

その変わり目が一体何処なのか、
それを推論するだけでも面白い。

そして、それ以外にも個人的に
興味を引いた箇所が2点ほどある。

まず1点目は・・・・・

サントリーの社名の由来だ。

ずっとサントリー創業者である
鳥居信治郎が「鳥居さん」と
呼ばれていたので、
鳥居さん⇒トリイサン⇒サントリー
に変化したものだとばっかり
ボクは昔から思っていたのだが、
本来の由来はちょっと違った。

1929年、サントリー(寿屋)の
創業者 鳥井信治郎が第1号の
国産ウイスキーを生み出した際、

当時の寿屋の大黒柱であった製品
「赤玉ポートワイン」の「赤玉」
すなわち 太陽(サン)の下に
自分の苗字・鳥井をくっつけて、
「サントリーウイスキー白札」
と妙名したことから「サントリー」
という企業名に発展したらしい。

遅きに失した感もあるが、
「サントリー」の正しい由来を
今更ながら知ることが出来て、
なんとなくホッとした(笑)

そして、2点目は・・・・・

1951年9月8日、
サンフランシスコ条約が締結、
日本に漸く主権が認められた
翌年の1952年、

サントリー2代目の社長となる
佐治敬三(信治郎の次男)の提案で
「君が代」に代わる新国民歌を
サントリーが募集したそうだ。

一企業が国民歌を募集するなど
相当におこがましい限りなのだが、
この際、その件は置いておく。

で、歌詞5万余、
作曲3千余もの応募が集まり、
厳正な審査の結果、

作詞・芳賀秀次郎、
作曲・西崎嘉太郎の

「われら愛す。」

という曲が大賞を獲得した。

その後、「われら愛す。」は
国民歌としても準国歌としても
採用されることはなかったが、
サントリーの新年会など
厳かな席では必ず社員一同で
歌われることになったそうである。

がしかし、

そこで最も驚かされたのが
惜しくもその次点になった
歌詞を応募した人物である。

なんと!なんと!
開高健の7歳年上の
鬼嫁 牧羊子が開高に黙って
内緒で応募した歌詞だったのだ。

審査員のひとりであった
詩人 三好達治に絶賛されて
2位に選ばれたそうだが、

鬼嫁が応募した歌詞が
次点に選ばれたという結果を
あとで知らされた開高健は、
こんなふうに語ったそうだ。

もうちょっとでオカアチャンの
作った歌をうたわせられるとこやった。
年下の亭主はつらいデ。
首すじを洗とこ

この話は他でも耳にしているが、
何度聞いても可笑しくて愉快だ。

以上、時間と機会さえあれば
ぜひお読み頂きたい書だと思う。