徳川家康が命からがら逃げ帰った浜松城。

hamamatsujyo (4)野面積みの出世城 浜松城

清州城以来のお城訪問デス。


さて、先日ご紹介しました
おんな城主直虎所縁の龍潭寺
お邪魔してきたついでに寄ったのが
浜松駅から徒歩15分程の場所にある
野面積みの石垣で知られる浜松城。

野面積みの出世城 浜松城 hamamatsujo (1)

かの天下人・徳川家康が
29~45歳までの17年間を過ごした
城ということでも知られています。

また家康以降の24代の城主中、
松平乗寿、井上正経、松平信祝、
水野忠邦などの城主5人が老中に、
また大坂城代2人、京都所司代2人、
寺社奉行4人などを排出したことから
「出世城」とも呼ばれています。

がしかし、

中には松平忠頼のように
久米左平次と服部半八の両名が
囲碁の勝敗をめぐって口論、
忠頼は仲裁に入ったがため、
不幸にも逆上した左平次によって
弱冠28歳の若さで刺殺されたり、

1816年、井上正甫は
高遠藩下屋敷(現在の新宿御苑)で
小鳥狩をしていた最中、
千駄ヶ谷村の一軒の農家に迷い込み、
留守番をしていた農民の妻を
出来心で押し倒してしまい、
そこへ帰宅してきた夫に見つかり、
夫と乱闘となった正甫は抜刀して
片腕を切り落としてしまう悲劇に。

井上正甫は農夫の口封じを
したつもりだったものの
江戸中、その噂は知れ渡り、

「密夫大名!」

「待ってました!強淫大名!」

「百姓女のお味はいかがでござる」

と揶揄われ、事件はやがて
幕府、将軍にも知れることとなり、
正甫は奏者番の役を免ぜられ、
陸奥棚倉に左遷されるなど
必ずしも出世城とはならなかった
城主も存在していたようデス(苦笑)

野面積みの出世城 浜松城 徳川家康 蝋人形 hamamatsujyo (1)

コチラの像は
浜松城内に展示されていた
若き徳川家康の蝋人形。

歴史研究家の磯田道史氏監修で
特殊メイク・造形工房『自由廊』の
JIRO氏によって制作されたそうデス。

1573年、三方ヶ原の合戦で
3万を擁したの武田信玄軍に敗れ、
武田軍に対する恐怖のあまり、
馬上で脱糞しながら
命からがら浜松城に逃げ帰り、
その惨めな姿を自戒を込めて
書かせたと言われる
「しかみ像」などの家康の絵を
参考に制作されたそうデス。

身長は160cm程度と推測され、
見た目秀吉っぽいイメージです。

野面積みの出世城 浜松城 徳川家康 hamamatsujyo (3)

浜松城天守閣からの眺め

3層の低い天守閣なので
それほど眺めはよくありません。

野面積みの出世城 浜松城 hamamatsujyo (5)

コチラが有名な野面積みの石垣。

特にこの部分の石垣は
400年以上前の石垣のままだそう。

1707年 宝永地震、
1854年 安政東海地震でも
崩れることはなかったのかな?

野面積みの出世城 浜松城 徳川家康 hamamatsujyo (6)

野面積みの出世城 浜松城 徳川家康 hamamatsujyo (7)

徳川家康像

野面積みの出世城 浜松城 hamamatsujo (2)

なお、明治維新後、
城郭が壊されたため、
一時荒廃していたそうですが、
昭和33年、野面積みの旧天守台の上に
現在の新天守閣が再建されたそうデス。

江戸城も再建されないかな?

東京スカイツリーを超える
東京観光の目玉になって
すぐに元が取れそうな気がします。

PS.

徳川家康 しかみ像

さて、家康が描かせたとされ、
家康の蝋人形の元にもなった
徳川美術館(名古屋市)所蔵の
「徳川家康三方ヶ原戦役画像」、
通称「しかみ像」ですが、

実は2015年8月に
徳川美術館学芸員の原史彦氏により
新説が発表されています。

そもそもこの画像は、
尾張徳川家9代の徳川宗睦の
嫡男の妻で紀伊徳川家から嫁いだ
従姫(よりひめ)が1780年に
持参した嫁入り道具のひとつ
だったそうですが、

家康の画像と伝わっていた為、
従姫の死後の1805年に、
尾張家が家康所縁の物を収める
「御清御長持」に加えられたそう。

但し、この頃はこの画像が
何ら三方ヶ原の戦いとは
結びつけられてなかったとか。

三方ヶ原の合戦敗戦の図と
初めて紹介されたのは、
1935年に徳川美術館が
開館した翌年1月のことだそうで、

その際は、
家康が自ら描かせたのではなく、
家康とお亀の方の間に生まれた
尾張徳川家初代の徳川義直が
父親の苦難を忘れないように
描かせたと紹介されたそうデス。

ところが、徳川美術館を創設した
尾張徳川家19代の徳川義親氏が
リップサービスか宣伝目的か、
家康が描かせた的に紹介してしまった為、

収蔵品図録でも、
義直ではなく、家康が自ら描かせ、
生涯座右から離さなかったと
記されてしまったことで、
先述した「しかみ像」の謂れに
変化してしまったとか。。。。汗

よって、この家康の画像が
しかみ顔なのか、それとも
単に怒っている顔なのかさえも
実際には定かでないそうデス。