吾輩は猫である。

吾輩は猫である 夏目漱石

猫好きにはたまらない一冊かと。


吾輩わがはいは猫である。名前はまだ無い。

 どこで生れたかとんと見当けんとうがつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。吾輩はここで始めて人間というものを見た。しかもあとで聞くとそれは書生という人間中で一番獰悪な種族であったそうだ。この書生というのは時々我々を捕つかまえて煮にて食うという話である。しかしその当時は何という考もなかったから別段恐しいとも思わなかった。ただ彼の掌てのひらに載せられてスーと持ち上げられた時何だかフワフワした感じがあったばかりである。掌の上で少し落ちついて書生の顔を見たのがいわゆる人間というものの見始みはじめであろう。この時妙なものだと思った感じが今でも残っている。第一毛をもって装飾されべきはずの顔がつるつるしてまるで薬缶やかんだ。その後ご猫にもだいぶ逢あったがこんな片輪には一度も出会でくわした事がない。のみならず顔の真中があまりに突起している。そうしてその穴の中から時々ぷうぷうと煙を吹く。どうも咽ぽくて実に弱った。これが人間の飲む煙草たばこというものである事はようやくこの頃知った。

今更ながら読了しました。

『吾輩は猫である』by 夏目漱石

簡単に読めるかなと思ってたら、
とんでもない。とんでもない。
11章まで続く長編大作(苦笑)

猫の視点から、
その飼い主である
教師・苦沙弥先生の周りに集う
様々な友人たちとの人間模様が
描かれた作品なんですが、
落語家のような猫の語り口が
とても軽快で愉快なのデス。

そして、幕末から間もない
明治の時代にあっても
それら日本人の性質なんて
今となんら変わってないなと。

嫉妬深く見栄っ張りで
我がままで強情、
きっと日本人の本質なんて
未来永劫変わることなんて
きっとないんだろうなあ、と
そんなふうに思わせてくれる
普遍性が解かれた小説でした。

さて、まだ本著を読んでない方、
全部を読み切るのは大変なんで、
最終章の最後の最後、
吾輩な猫がビールを呑んで
酔っぱらって、甕の中に落ちて、
最期を迎えそうになる、
という以下のシーンだけでも
ぜひお読みください。

主人は早晩胃病で死ぬ。金田のじいさんは慾でもう死んでいる。秋の木この葉は大概落ち尽した。死ぬのが万物の定業で、生きていてもあんまり役に立たないなら、早く死ぬだけが賢こいかも知れない。諸先生の説に従えば人間の運命は自殺に帰するそうだ。油断をすると猫もそんな窮屈な世に生れなくてはならなくなる。恐るべき事だ。何だか気がくさくさして来た。三平君のビールでも飲んでちと景気をつけてやろう。

 勝手へ廻る。秋風にがたつく戸が細目にあいてる間から吹き込んだと見えてランプはいつの間まにか消えているが、月夜と思われて窓から影がさす。コップが盆の上に三つ並んで、その二つに茶色の水が半分ほどたまっている。硝子ガラスの中のものは湯でも冷たい気がする。まして夜寒の月影に照らされて、静かに火消壺とならんでいるこの液体の事だから、唇をつけぬ先からすでに寒くて飲みたくもない。しかしものは試しだ。三平などはあれを飲んでから、真赤になって、熱苦しい息遣いをした。猫だって飲めば陽気にならん事もあるまい。どうせいつ死ぬか知れぬ命だ。何でも命のあるうちにしておく事だ。死んでからああ残念だと墓場の影から悔くやんでもおっつかない。思い切って飲んで見ろと、勢よく舌を入れてぴちゃぴちゃやって見ると驚いた。何だか舌の先を針でさされたようにぴりりとした。人間は何の酔興でこんな腐ったものを飲むのかわからないが、猫にはとても飲み切れない。どうしても猫とビールは性が合わない。これは大変だと一度は出した舌を引込ひっこめて見たが、また考え直した。人間は口癖のように良薬口に苦しと言って風邪などをひくと、顔をしかめて変なものを飲む。飲むから癒るのか、癒るのに飲むのか、今まで疑問であったがちょうどいい幸いだ。この問題をビールで解決してやろう。飲んで腹の中までにがくなったらそれまでの事、もし三平のように前後を忘れるほど愉快になれば空前の儲け者もので、近所の猫へ教えてやってもいい。まあどうなるか、運を天に任せて、やっつけると決心して再び舌を出した。眼をあいていると飲みにくいから、しっかり眠って、またぴちゃぴちゃ始めた。

 吾輩は我慢に我慢を重ねて、ようやく一杯のビールを飲み干した時、妙な現象が起った。始めは舌がぴりぴりして、口中が外部から圧迫されるように苦しかったのが、飲むに従ってようやく楽になって、一杯目を片付ける時分には別段骨も折れなくなった。もう大丈夫と二杯目は難なくやっつけた。ついでに盆の上にこぼれたのも拭ぬぐうがごとく腹内ふくないに収めた。

 それからしばらくの間は自分で自分の動静を伺うため、じっとすくんでいた。次第にからだが暖かになる。眼のふちがぽうっとする。耳がほてる。歌がうたいたくなる。猫じゃ猫じゃが踊りたくなる。主人も迷亭も独仙も糞を食くらえと云う気になる。金田のじいさんを引掻かいてやりたくなる。妻君の鼻を食い欠きたくなる。いろいろになる。最後にふらふらと立ちたくなる。起ったらよたよたあるきたくなる。こいつは面白いとそとへ出たくなる。出ると御月様今晩はと挨拶したくなる。どうも愉快だ。

 陶然とはこんな事を云うのだろうと思いながら、あてもなく、そこかしこと散歩するような、しないような心持でしまりのない足をいい加減に運ばせてゆくと、何だかしきりに眠い。寝ているのだか、あるいてるのだか判然しない。眼はあけるつもりだが重い事夥しい。こうなればそれまでだ。海だろうが、山だろうが驚ろかないんだと、前足をぐにゃりと前へ出したと思う途端ぼちゃんと音がして、はっと云ううち、――やられた。どうやられたのか考える間がない。ただやられたなと気がつくか、つかないのにあとは滅茶苦茶になってしまった。

 我に帰ったときは水の上に浮いている。苦しいから爪でもって矢鱈に掻かいたが、掻けるものは水ばかりで、掻くとすぐもぐってしまう。仕方がないから後足あとあしで飛び上っておいて、前足で掻いたら、がりりと音がしてわずかに手応てごたえがあった。ようやく頭だけ浮くからどこだろうと見廻わすと、吾輩は大きな甕の中に落ちている。この甕は夏まで水葵と称する水草が茂っていたがその後烏の勘公が来て葵を食い尽した上に行水を使う。行水を使えば水が減る。減れば来なくなる。近来は大分だいぶ減って烏が見えないなと先刻思ったが、吾輩自身が烏の代りにこんな所で行水を使おうなどとは思いも寄らなかった。

 水から縁ふちまでは四寸余よもある。足をのばしても届かない。飛び上っても出られない。呑気にしていれば沈むばかりだ。もがけばがりがりと甕に爪があたるのみで、あたった時は、少し浮く気味だが、すべればたちまちぐっともぐる。もぐれば苦しいから、すぐがりがりをやる。そのうちからだが疲れてくる。気は焦るが、足はさほど利きかなくなる。ついにはもぐるために甕を掻くのか、掻くためにもぐるのか、自分でも分りにくくなった。

 その時苦しいながら、こう考えた。こんな呵責に逢うのはつまり甕から上へあがりたいばかりの願である。あがりたいのは山々であるが上がれないのは知れ切っている。吾輩の足は三寸に足らぬ。よし水の面おもてにからだが浮いて、浮いた所から思う存分前足をのばしたって五寸にあまる甕の縁に爪のかかりようがない。甕のふちに爪のかかりようがなければいくらも掻がいても、あせっても、百年の間身を粉こにしても出られっこない。出られないと分り切っているものを出ようとするのは無理だ。無理を通そうとするから苦しいのだ。つまらない。自みずから求めて苦しんで、自ら好んで拷問に罹かかっているのは馬鹿気ている。

「もうよそう。勝手にするがいい。がりがりはこれぎりご免蒙めんこうむるよ」と、前足も、後足も、頭も尾も自然の力に任せて抵抗しない事にした。

 次第に楽になってくる。苦しいのだかありがたいのだか見当がつかない。水の中にいるのだか、座敷の上にいるのだか、判然しない。どこにどうしていても差支さしつかえはない。ただ楽である。否いな楽そのものすらも感じ得ない。日月を切り落し、天地を粉韲して不可思議の太平に入る。吾輩は死ぬ。死んでこの太平を得る。太平は死ななければ得られぬ。南無阿弥陀仏なむあみだぶつ南無阿弥陀仏。ありがたいありがたい。

個人的にはこの後、
きっと苦沙弥先生か
女中のおさんのどちらかによって
甕から助け出されたと予想します。

そういうわけで、
きっと吾輩な猫は
今もどこかで生きてるはず。

ご安心されたし。

PS.

なお、本著を書いた10年後、
夏目漱石は『明暗』を執筆途中
胃潰瘍が原因で49歳の若さで
亡くなってしまうのですが、

「主人は早晩胃病で死ぬ。」と、
その旨を猫が予想しているのが
なんとも切ないところデス。