田中角栄 生誕100年。

BS朝日 昭和偉人伝 「田中角栄 生誕100年」

命懸けの気迫、足りてますか?


そして、交渉相手へのリスペクトできてますか?

2018年に放送されたBS朝日 昭和偉人伝 「田中角栄 生誕100年」の再放送を鑑賞。

田中角栄と言えば、「目白の闇将軍」と揶揄されるほど権力を欲しいままにした、また元首相の汚職事件として世界的に注目を浴びたロッキード事件では有罪判決を受けるなど、晩年にダークなイメージがつきまとった政治家でしたが、ボクにとっての田中角栄と言えば、1972年7月弱冠54歳で首相に就任、その3カ月に満たない1972年9月末、遺書をしたためた大平正芳外相らと中華人民共和国に日本の首相として戦後初の訪問を果たし、周恩来首相を相手にガチで喧嘩腰の外交交渉を行い、僅か5日間で見事日中国交正常化を実現した、また日本列島改造論による奇跡の戦後復興を成し遂げた戦後を代表する偉大なる総理大臣のイメージがあります。

本番組は田中角栄と周恩来がガチで闘った外交交渉にもスポットを当てており、シビれるようなシーンを回想してましたので、以下要約をご紹介します。

訪中2日目、日本の戦争責任ばかりに固執して前向きな話をいっこうにしない周恩来に対し田中角栄はこう言い放ちます。

「我々はそんな過去の話ばかりしにきたわけじゃない。明日から日本と中国でどういう歴史を切り開いていくかということを話し合いにきたんだ。・・・(中略)・・・私の背後にはね、(共産主義に対する)反対派というものが随分おる。日本に帰ったらあるいは私は殺されるかもしれない。それくらい決死の覚悟をもって中国にやって来たんですよ!( ← 朝貢外交であるかのように思わせながら)」

さらに角栄は畳みかけるように自分の戦争体験を語ります。

角栄:「太平洋戦争の時、私は二等兵で満州にいたんだけど、私の鉄砲はいったいどこに向いておったか、周首相ならわかりますよね?」

周恩来:「・・・」

角栄:「私の鉄砲はね、中国じゃなく、ソ連に向いておったんですよ。」( ← 角栄さん得意のジョーク)

周恩来はこれら機転を利かした角栄の発言によって怒りの矛を収め、その結果、日本は中華人民共和国が中国の唯一の合法政府であることを認める代わりに、中国は日本に対する戦争賠償の一切の請求を放棄し、両国間の恒久的な平和友好関係を確立することに合意し、日中国交正常化を実現できたというわけデス。

もちろん賠償放棄にみえて、実は莫大な規模の政府開発援助(ODA)を今も提供し続けてはいますが。

日中共同声明 田中角栄 周恩来

何故首相就任後すぐに日中国交正常化交渉を田中角栄は急いだのか?

毛沢東や周恩来は苦労に苦労を重ねて中華人民共和国を作った創業者である。故に即決できるだけの権力をもった彼らの目の黒いうちに国交正常化を実現できなければ、2度とチャンスはやってこないだろうと確信していたからだそうデス。そして、角栄が毛沢東と周恩来のふたりに対し心よりリスペクトしていたことが交渉成立の秘訣であることは言うまでもありません。

因みにこのわずか4年後の1976年、毛沢東と周恩来はともにこの世を去ることになります。合掌

 

□□□ 東雲乃呟 □□□□□□□□□□

恐るべし51歳!?

お誕生日オメデトウゴザイマス。