涙・鎌 倉 宮 。

倉宮 護良親王(大塔宮)

護良親王最期の地。


1333年元弘の変によって鎌倉幕府を滅ぼし、後醍醐天皇治政の建武の新政樹立に貢献した歴史上の人物と言えば、楠木正成・足利尊氏・新田義貞の3将がつとに知られる存在ですが、笠置山籠城より鎌倉幕府に徹底抗戦した後醍醐天皇三男・大塔宮こと護良親王も忘れてはいけない存在デス。

吉川英治著作「私本太平記」やNHK大河ドラマ「太平記」ではお馴染みの皇子ですよネ。

しかしながら、鎌倉幕府倒幕後の建武の新政下で征夷大将軍まで務めるも、後醍醐天皇が寵愛した足利尊氏や阿野廉子と対立し、謀反の疑いで鎌倉に送還され幽閉。その後、鎌倉幕府第14代執権・北条高時の遺児であった時行が鎌倉に攻め入った中先代の乱(1335年)の混乱の中、鎌倉を守護していた尊氏の弟・足利直義の命によりこの地で暗殺されてしまいます。享年28歳。

鎌倉宮 護良親王(大塔宮)

そんな悲劇の皇子・大塔宮こと護良親王を主祭神として祀り明治2年(1869年)に創建された神社がこの鎌倉宮なんデス。

鎌倉宮 護良親王(大塔宮) 幽閉土牢

護良親王が幽閉されいたと伝わる拝殿裏にある土牢。

鎌倉宮 護良親王(大塔宮) 幽閉土牢

身動きもままならなかった狭い穴だったため足腰が弱り、最期は暗殺の命を受けた淵辺義博の刃に抵抗すらできなかったそうな。。。合掌

鎌倉宮 村上社 村上彦四郎義光公 護良親王(大塔宮)

さて、鎌倉宮には「村上社」と名付けられた境内社が存在します。護良親王に村上とくれば、あの忠臣のことですよね。

元弘の変において吉野の山に陣取った護良親王の下で戦い、護良親王を落ち延びさせるために自ら親王の影武者となって命を投げうった忠臣・村上義光デス。

鎌倉宮 村上社 村上彦四郎義光公 護良親王(大塔宮)

太平記によると義光は親王の鎧を着て自ら身代わりとなり「天照太神御子孫、神武天王より九十五代の帝、後醍醐天皇第二の皇子一品兵部卿親王尊仁、逆臣の為に亡され、恨を泉下に報ぜん為に、只今自害する有様見置て、汝等が武運忽に尽て、腹をきらんずる時の手本にせよ」と叫びながら切腹、自らのはらわたを引きちぎりだして敵に投げつけ、太刀を口にくわえて、うつぶせになって命果てたそうデス。。。合掌

護良親王墓(大塔宮)

最後に鎌倉宮より徒歩5分ほどの場所にある護良親王の墓所。

実際の墓所は長い階段を登った先にありますが、この時は昨年の台風の影響で途中までしか登れず。。。合掌

 

□□□ 東雲乃呟 □□□□□□□

雪平 莉左ちゃん!