歴・昭和史 1926-1945。

昭和史 1926-1945 (平凡社ライブラリー) 文庫

昭和史 1926-1945 読了。


名作『日本のいちばん長い日』を著した半藤一利先生。

今年2021年1月12日、齢90の人生を全うされ、惜しくも天に召されたが、「昭和史」というとてつもない歴史書を我々に遺してくださった(感謝)

何故に大日本帝国が満州に進出し、その挙句の果て超大国・アメリカを相手に戦わなければならなかったのか、本書を読み解くことで手に取るように理解できる。

例えば大日本帝国には根本的な問題として以下2つの制度的欠陥があった。

■ 明治憲法第11条:天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス

もともとこの第11条にあるように陸海軍(統帥部)は、天皇の直属の機関として極端にいえば内閣と同格の立場にあった。しかしながら、元老などの輔弼によって統帥部の力は抑え込まれていた。

ところが1930年、ロンドン軍縮会議の結果、統帥権干犯問題が湧き起こり、「藤波、俺はお前の噛ませ犬じゃない!by 長州力 」もとい「内閣よ、統帥部はお前らの噛ませ犬じゃない!」みたいな寝た子を起こすような事件が勃発し、事実上内閣は予算でしか統帥部をコントロールできなくなったため、統帥部暴走のきっかけとなった。

因みに統帥権干犯問題に火をつけ、不本意ながら海軍に味方をしたのは野党・立憲政友会総裁の犬養毅。その後、思惑通り犬養は政権を奪取、首相に昇りつめたものの、頭に乗らせた海軍と対立。結果515事件で暗殺される。

■ 軍部大臣現役武官制

軍部大臣(陸軍大臣・海軍大臣)の就任資格を現役の大将・中将に限定する制度。例えば内閣が陸軍と対立した場合、陸軍は陸軍大臣を辞職させて後任を推薦しないことで内閣を総辞職に追い込み、合法的に倒閣することができたのだ。つまり内閣は軍部の言いなりにならざるえなかった。

軍部大臣現役武官制については力を増してきた政党政治の力を削ぐため陸軍出身の山県有朋首相が力技で規定。のちに海軍出身の山本権兵衛首相が危険視し廃止に追いやったものの、226事件の影響を受けて広田弘毅首相がまさかの再制度化!これによりもはや陸軍の暴走を誰も止めることができなくなった。

以上、ぜひ本書を読み解いて皆様なりの要因を見つけられては如何でしょ?半沢直樹のような正義感ある政治家や軍人の登場はごく僅かですが、超極悪人の軍人なら嫌というほど登場し、決して飽きることはないかと(苦笑)

PS.

城山三郎著書の小説「落日燃ゆ」では、「軍部大臣現役武官制」について広田弘毅を擁護するような展開で書かれている。

もともと軍部大臣現役武官制の復帰を要望してきたのは陸軍で、その言い分は226事件で責任をとって予備役に退いた皇道派の大将たちが再び大臣として復活し、統制派との派閥争いか再燃するとも限らないからだという。

そこで、広田は軍部大臣現役武官制の復帰を認めるかわりに以下の要件を陸軍に飲ませた。

陸軍大臣候補者は陸軍大臣・参謀総長・教官総監という陸軍三長官の一致して推薦した者に限るという内規をはずさせ、現役教官の中から総理が自由に選任できることとし、また必要なら、予備役の適任者を現役に復帰させることも可能とした。つまり、名を捨て実をとった取引としたのだ。

しかしながら、そもそも参謀本部にしろ関東軍にしろ、内閣より攻め立てられるとすぐに統帥権を振りかざし、内閣の閣議に聞く耳などもたない状態にあり、軍部大臣現役武官制の復帰などは大して意味をなさなかったとも。

にも拘わらず戦後の東京裁判にて、軍部大臣現役武官制の復帰を認めたことにより広田がA級戦犯として弾劾され、結果死刑判決を受けたことは、当時の広田に知る由もなかったと擁護されている。

なお、軍部大臣現役武官制の復帰は、陸軍大臣の辞職をちらつかせる統制派の意向に内閣を従わせただけでなく、真の敵はソ連であり中国との戦はすべきでないとした皇道派を予備役に退いた長老もろとも完全に排除することとなり、中国を敵視した統制派主体の軍事方針がのちの日中戦争に繋がったことは紛れもない事実かと。

 

□□□ 東雲乃呟 □□□□□□□

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