歴史探訪:勝海舟像

勝海舟像 (4)

遠目に見えるこのお方は・・・

勝海舟像 (2)

ご覧の通り勝安芳(かつあわ)と
台座には記載されておりますが、
皆様もよくご存じの幕末の賢人
勝海舟の銅像でございます。

勝海舟像 (1)

勝海舟は江戸の本所亀沢町、
忠臣蔵で有名な吉良邸のあった
現在の本所松坂町近くで生まれ、
長く墨田区内で育ったことから
この地にゆかりがあるんですね。

で、その関係から
2003年江戸開府400年を記念して
墨田区民を中心に銅像設立の為に
集められた募金を元に銅像を建立、

その有志の会が墨田区に寄贈した為
墨田区役所前のうるおい広場内に
設置されることになったそうデス。

因みに指を指している方向に
特別な意味はないそうです。

勝海舟像 (3)

で、勝海舟の功績と言えば、
1868年3月、現在の田町にあった
薩摩藩江戸藩邸においての
西郷隆盛との歴史的会談、

官軍全軍による江戸城総攻撃を
江戸城無血開城へと導いたことが
つとに有名かと思います。

その顛末をwikipediaより
転載しましたのでご参照下さい。

明治元年(1868年)、官軍の東征が始まると、対応可能な適任者がいなかった幕府は勝を呼び戻した。勝は、徳川家の家職である陸軍総裁として、後に軍事総裁として全権を委任され、旧幕府方を代表する役割を担う。官軍が現在の静岡市にあった駿府城にまで迫ると、幕府側についたフランスの思惑も手伝って徹底抗戦を主張する小栗忠順に対し、早期停戦と江戸城の無血開城を主張、ここに歴史的な和平交渉が始まる。

まず3月9日、山岡鉄舟を駿府の西郷隆盛との交渉に向かわせて基本条件を整えた。この会談に赴くに当たっては、江戸市中の撹乱作戦を指揮し奉行所に逮捕されて処刑寸前の薩摩武士・益満休之助を説得して案内役にしている。 予定されていた江戸城総攻撃の3月15日の直前の13日と14日には勝が西郷と会談、江戸城開城の手筈と徳川宗家の今後などについての交渉を行う。結果、江戸城下での市街戦という事態は回避され、江戸の住民150万人の生命と家屋・財産の一切が戦火から救われた。

勝は交渉に当たり、幕府側についたフランスに対抗するべく新政府側を援助していたイギリスを利用した。英国公使のパークスを使って新政府側に圧力をかけさせ、さらに交渉が完全に決裂したときは江戸の民衆を千葉に避難させたうえで新政府軍を誘い込んで火を放ち、武器・兵糧を焼き払ったところにゲリラ的掃討戦を仕掛けて江戸の町もろとも敵軍を殲滅させる焦土作戦の準備をして西郷に決断を迫った。

この作戦はナポレオンのモスクワ侵攻を阻んだ1812年ロシア戦役における戦術を参考にしたとされている。 この作戦を実施するに当たって、江戸火消し衆「を組」の長であった新門辰五郎に大量の火薬とともに市街地への放火を依頼し、江戸市民の避難には江戸および周辺地域の船をその大小にかかわらず調達、避難民のための食料を確保するなど準備を行っている。幕府の軍艦は新政府軍の退路を絶つ為、東海道への艦砲射撃の準備をさせ、慶喜の身柄は横浜沖に停泊していたイギリス艦隊によって亡命させる手筈になっていた。

この会談の後も戊辰戦争は続くが、勝は旧幕府方が新政府に抵抗することには反対だった。一旦は戦術的勝利を収めても戦略的勝利を得るのは困難であることが予想されたこと、内戦が長引けばイギリスが支援する新政府方とフランスが支援する旧幕府方で国内が2分される恐れがあったことなどがその理由である。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA