戦・関ケ原古戦場記念館。

岐阜関ケ原古戦場記念館

2023.08.13(日)9:30


大河ドラマ『どうする家康』が
放送するまでに行かなきゃならん
と、心にしていた天下分け目の関ケ原

『真田丸』での関ケ原
司馬遼太郎の『関ケ原
岡田准一主演映画の『関ケ原
江戸東京博物館での『大関ヶ原展』など
さんざん関ケ原合戦を勉強しながら
齢58にしてやっと現地にお邪魔できた(嬉涙)

岐阜関ケ原古戦場記念館

JR関ケ原駅

ぶっちゃけ駅はガラガラである。

東海地方故に車移動が多いんだろうか。

岐阜関ケ原古戦場記念館

関ケ原駅から徒歩10分

田圃道の中に見えてきたのが・・・

岐阜関ケ原古戦場記念館

徳川家康の最後陣跡に
2020年に開館した5F建ての

岐阜関ケ原古戦場記念館。

岐阜関ケ原古戦場記念館

1F:グランドビジョン&シアター

特にシアターは大迫力
前日までにネット予約をしておこう。

岐阜関ケ原古戦場記念館

2F:展示室

岐阜関ケ原古戦場記念館

5F:展望室

岐阜関ケ原古戦場記念館

他に高い建物がないため
関ケ原合戦場をパノラマで展望できる。

岐阜関ケ原古戦場記念館

岡山(丸山)烽火場
黒田長政・竹中重門陣跡

竹中重門と言えば
竹中半兵衛こと竹中重治の嫡男だ。

時に長政31歳、重門26歳
近所に住んでいたこともあり
先輩後輩の関係だったのだろうか。

ブラタモリでは
黒田・竹中軍は山間の裏道を通って
島左近の狙撃に成功したのでは?と語られていた。

笹尾山・石田三成陣跡

西軍の陣は
三成の陣をはじめ
どの陣も高台に位置しており
圧倒的に西軍有利であったことが分かる。

岐阜関ケ原古戦場記念館

記念館の横には
徳川家康最後陣跡であり
床几場 徳川家康進旗験馘處が真下に見れる。

因みに最初の陣は1.5km離れた桃配山。

岐阜関ケ原古戦場記念館

徳川家康床几場

首実検も此処で行われたそう。

そして、最も気になっていたのが
松尾山の小早川秀秋の陣だったが・・・

い っ た い 何 処 よ ?

岐阜関ケ原古戦場記念館 松尾山

なんとなんと!

なんと家康の陣からも
めちゃくちゃ遠い遥か山の頂上!?

岐阜関ケ原古戦場記念館

松尾山・小早川秀秋陣

これじゃ「問鉄砲」なんて
絶対聴こえるわけがない!?

大砲でさえこりゃ無理だわネ(笑)

PS.

てか、小早川秀秋の
合戦途中と言われる裏切り行為は
合戦2日後に送付された「堀文書」こと
松平家乗宛石川康通・彦坂元正連署書状や
吉川広家自筆書状案などの考察により
もはや史実ではないとも言われている。

伏見城の戦いでは
確かに西軍側についていたが
その後に黒田長政による
高台院を利用した書状により
秀秋は事前に調略されていたという。

朝10時に家康が桃配山から
盆地部の最後陣跡に押し出すと
わずか2時間で決着したというから
秀秋に日和見する暇などなく
「開戦直後から東軍に加勢した」
というほうが辻褄が合う。

もしかすると松尾山の陣が
ご覧の通り戦地と離れた
めちゃ遠い場所にあったため
仮に開戦直後に出陣したとしても
実際の戦地への到着が遅れ
日和見したあと東軍に寝返ったように
誤解されてしまったのかもしれない。
但し、そもそも実際の戦地が
何処かは今もって不明らしいが。。。汗

とは言えそもそも
日和見なんかすれば
外様になにかといちゃもんを
つけたがる家康のことである
鳥居元忠の守る伏見城を
落城させたことを考えても
岡山55万石の加増・移封はなかっただろう。

というわけで・・・

小早川秀秋は
関ケ原の戦いの最中に
風見鶏の如く寝返ったのではなく
最初から東軍として戦ったが正解かと。

ま、伏見城の戦いでは
確かに西軍に与していたわけで
その後、東軍に寝返ったことで
小早川軍の先陣となることを放棄した
家臣・松野主馬の逸話もあるわけで
裏切りっちゃあ裏切りではあるが。

なお、南宮山の毛利軍の陣は
あまりに遠すぎて欠片も見えんかった。

岐阜関ケ原古戦場記念館

関ケ原駅から近い
松平忠吉・井伊直政陣跡

この地に立つと東軍の陣が
いかに低地にあったことがよく分かる。

岐阜関ケ原古戦場記念館

東首塚

首塚は東西2カ所あり
コチラは東の首塚だ。

合掌。

以上、満足満足大満足。

但し、今回は半日だったため
残念ながら陣巡りは叶わなかった。

次回はぜひ自転車借りて陣巡りいくだヨ。

 

□□□ 東雲乃呟 □□□□□□□

もし地球に人がいなかったら・・・