マッカーサーが探した男。

マッカーサーが探した男 表紙 浜本正勝

マッカーサーを怒鳴りつけた男」とは別人デス。


“I shall return.”

この言葉、太平洋戦争開戦まもない1942年にかのダグラス・マッカーサーがフィリピンを脱出する際に会稽の恥をもって発した言葉である。

もともとマッカーサーは親子二代に渡ってフィリピンを統治していた司令官だったのだが、日本の軍事力の過小評価故か首都マニラのあるフィリピン・ルソン島に本間雅晴司令官率いる日本軍の上陸を許し、結果首都マニラを放棄してバターン半島とコレヒドール島で籠城するに至った。しかし、日本軍の勢いは止まらず、結局7万6千人という米比兵を置き去りにして、自らはオーストラリアに脱出するという屈辱的な敗果を生んだのである。そして、日本軍はパターン半島も占領し、司令官を失い捕虜となった7万6千人の米比兵たちはオドネルにある捕虜収容所までの約88kmの距離を徒歩で移動、その際、マラリアや飢え等で約1万人もの捕虜が亡くなるという「パターン死の行進」が引き起こされてしまう。

そんな復讐心に燃えるマッカーサーの言葉に隠れた史実が綴られた「隠された昭和史 マッカーサーが探した男」(著者:香取俊介)という著書を「わたしの財産はエスプリです。」こと資生堂名誉会長であられる福原義春氏が推奨されていて、先日読了した次第である。主人公は1929年に米ハーバード大学を卒業した秀才 浜本正勝。

浜本は大学卒業後、自身の才覚を生かして、満州GMの支配人まで上り詰めるも、太平洋戦争開戦で職が失われ、仕方なく陸軍省兵務課に志願届を提出し、1942年7月陸軍少佐待遇にて日本軍が占領して間もないマニラに着任することとなる。但し、浜本の職責は軍人としてではなく、フィリピンを統治するための庶務的な裏方の役割であった。そして、持ち前のネイティブな英語力をフルに活かして、フィリピンの傀儡政府になくてはならない存在にまで上り詰めていくのであった。もちろん同書はノンフィクションであり実際に実在した人物である。

福原氏が「なぜNHKがドラマ化しないのかしら?」と不思議がるほどの濃い内容の史実であり、浜本氏本人の人物象だけが描かれているだけでなく、生前の浜本氏から直接語られた太平洋戦争におけるフィリピン戦線の実情がこと細かに記載されており、歴男や歴女にはたまら内容かと。おかげで読書スピードが滅法遅いボクでさえわずか2日間で読了してしまったほどだ。

何しろ主人公 浜本正勝は対立関係にあった統制派の東条英機首相と皇道派の山下奉文陸軍大将の二人から並々ならぬ信頼を受け、フィリピン戦線で最期までアメリカに抵抗した人物として、かのダグラス・マッカーサー元帥が最後までその行方を探した男といわれているのだ。面白くないわけがない。

また、圧倒的な軍事力と工業力をもつ米国に対して日本自らが戦争を仕掛け、どのような勝算をもって東条首相は戦おうとしていたのかも垣間見れたりする。ぜひ一読いただきたい書である。

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マニラの軍事裁判法廷での山下奉文陸軍大将。左横に座って山下大将の通訳しているのが浜本正勝氏(1945年)。

裁判の結果、山下大将は1946年12月23日に絞首刑に処せられ、以下の辞世の句を残している。

「待てしばし勲のこしてゆきし友 あとなしたいて我もゆきなむ」

なお、この頃、マッカーサーはまだ浜本の存在に気付いていなかったようで、浜本はこの後、ドイツ語に堪能だった生前の山下大将の口添えにより、「戦前からマニラに住む商人」という設定になって捕虜収容所から釈放され、日本へ帰国、マッカーサーの捜索を逃れることができたとされる。

浜本正勝プロフィール:
北海道余市町で生まれるも、すぐに親がハワイ・オアフ島へ移民したことで、ハワイにてネイティブな英語と日本語の両方を覚える。日本人として差別を受けた経験から勉学に励み、ハーバード大学へ独学で入学。特待生になるほど優秀な成績でハーバード大学を卒業し、晴れて憧れの日本へ凱旋帰国。当初服部時計店に勤務するも、GMの日本支社に転職し、満州GMの支配人まで昇進する。しかし、太平洋戦争勃発でGM日本支社は解散。仕方なく陸軍省兵務課に志願届を提出し、フィリピンの戦地へ軍人としてではなく、庶務的な業務で派遣される。そして日本軍とフィリピンの傀儡政権の間に入って孤軍奮闘。ホセ・ラウレルフィリピン大統領特別顧問、東条英機首相秘書官、山下奉文陸軍大将軍属通訳などを歴任し、日本軍を裏から支えながらも、俯瞰的な立場で戦争を垣間見ることが出来た稀有な人物である。

PS.

結局のところ、占領した国々に日本の傀儡政権を作って、対米宣戦布告させた上で共同で戦うという大東亜共栄圏の構想は、そもそも軍隊や武器すら持っていない平和な島々の人たちに響くはずもなく、完全に絵に描いた餅に終わってしまったのである。H・テイジャーの言葉を借りれば「希望的観測ほど愚かな思考はない。」である。