日本最強のダンディズム。
さて、世間ではオバマ大統領と安倍首相が会食した「すきやばし次郎」が話題のようですが、先日「ラーメン二郎」を卒業したボクにとって最も旬な「次郎」は冒頭画像のMr.プリンシプルこと「白洲次郎」デス。「さん」付けずにスイマセン(汗)
実は先々週の4月17日にその白洲次郎さんと妻正子さんが1940年よりお亡くなりになるまで過ごされていたという小田急線鶴川駅にある藁ぶき屋根の農家「旧白洲邸 武相荘(ぶあいそう)」に生まれて初めて見学に行って参りました。 2001年10月より記念館・資料館として一般公開されてるんです。
で、その時の様子を詳しくレポートしたいと思っているんですが、その前に白洲次郎って誰よ?ってことになりそうなので、まずはその次郎さんの生まれてから太平洋戦争末期までの半生をご紹介したいと思います。少々長くなりますが、どうぞお付き合い下さいませ。
白洲次郎(1902年2月17日 – 1985年11月28日)とは?
※左から長女、長男 尚蔵(京都帝国大学 → オックスフォード大学)、次女、次郎
巨万の富を築いた貿易会社「白洲商店」を営み、「白洲将軍」とも言われ周囲から恐れられた白洲文平の次男として、第一次日英同盟が調印・発行された1902年(明治35年)に現在の芦屋市で誕生。金持ちの次男のボンボンな上に手のつけられない悪ガキとして成長し、17歳の神戸一中時代にはアメリカからの輸入車 1916年型ペイジSix-38(フリートウッド製5座席ツーリングカー)を父親文平から買い与えられ乗り回し、宝塚歌劇団の女子生徒と恋仲になるなどの武勇伝が数多く残されたりしています。
コチラが当時の写真でして、一番右に写っているのが次郎さんデス。名門ボディ工房のフリートウッドが製作した名車だそうで、今の価値に変えると一体いくらだったんでしょうね?
そして、さらに悪ガキぶりを発揮する次郎さんに手を焼いていた父親 文平さんは、1919年(大正8年)の神戸一中卒業後すぐに英国のケンブリッジ大学クレア・カレッジに聴講生として留学させ、次郎さんを手元から離します。ま、実際のところ文平さん自身も、ハーバード大学やボン大学の海外留学経験があっての白洲商店でしたので、次郎さん曰くの「島流し」ではなく、既定路線としての海外留学が正しい裏事情なんじゃないかと思います。長男の尚蔵さんもオックスフォード大に留学していますしね。ただ次郎さんは英国でもブガッティやベントレーなどの自動車を乗り回し贅沢三昧な生活を送って英国人にへつらうことなく青春を謳歌してしまうところがボクのような一般庶民とは格の違うところです。因みに仕送りの額は現在の金銭価値にして年間4000万円ほどだったとか(驚)
※左が白洲次郎、右がロバート C. ビン
そんな日本人らしからぬ豪快な性格が功を奏してか、7代目ストラフォード伯爵ロバート C. ビンと終生の友となったり、上流階級の言葉と認められるオックスブリッジ・アクセントのある流暢なイギリス英語を習得したり、スーツは英国サヴィルローの老舗 HENRY POOL(ヘンリープール)、シャツも名門 Turnbull & Asser(ターンブル&アッサー)でオーダーメイド、帽子はJames Lock & Co(ジェームス ロック & カンパニー)、傘のロールスロイスと言われたBRIGGことトーマス・ブリッグ・アンド・サン(現スウェイン・アドニー・ブリッグ)を愛用します。さらには寄宿舎で英国流の紳士道を身につけるなど、次郎さんのその後の華やかなキャリアに大きく影響することになるのです。
しかし、幸か不幸かその後、父親の経営していた白洲商店が世界恐慌の煽りを受け倒産してしまった為、1928年(昭和3年)に9年間過ごした英国からの帰国を余儀なくされます。そして、翌年の1929年にブリティッシュイングリッシュを活かせる英字新聞の「ジャパン・アドバタイザー」に記者として就職し、しばらくサラリーマンの道を歩むことになるのですが、その当時、伯爵・樺山愛輔の長男・丑二紹介の茶席でその妹・正子と出会い、お互い一目惚れしてしまうんです。
ご覧の通り次郎さんは日本人離れした彫りの深い端正なマスクに175cmの高い身長、そして英国仕込みの凛々しく気品ある物腰。正子さんでなくても惚れていたかと。
こちらが当時の正子さん。次郎もまた海外生活経験のある正子さんにゾッコンLOVEとなり、、、
次郎自身のポートレートに『Masa: You are the fountain of my inspiration and the climax of my ideals. Jon」(正子、君は私にとって霊感の泉であり究極の理想だ ジョン(次郎)』とサインしたものを渡しており、武相荘にもこの現物が展示されております。正子さんの父・樺山愛輔に結婚を承諾してもらう為に言った言葉「お嬢さんを頂きます。」もつとに有名ですよね。正子さんも「白洲さんと一緒になれなかったら家出します」と言い放ったそうです。
そして、周囲の反対をよそに同年、次郎さんと正子さんは京都ホテルで今で言う電撃結婚をします。結婚祝いに次郎の父文平から贈られたのはなんとランチア・ラムダ!?白洲商店は倒産したんとちゃうんかい?って突っ込みはナシで(汗)新婚旅行もこのラムダで箱根の富士屋ホテルに行ったそうデス。
その後セール・フレイザー商会に転職した後、1937年(昭和12年)日本食糧工業(後の日本水産)の取締役となるんですが、次郎さんは海外に出向くことが多く、特に駐イギリス特命全権大使であった吉田茂との親交を深めます。また同時期に近衛文麿のブレーンとして活動したこともあり、次第に政界へのパイプももつようになります。
1941年に開戦した太平洋戦争の2年ほど前、当時は1937年から始まった支那事変で中国と小競り合い状態ではあったものの大国アメリカと戦争になるなど誰も予想していなかった時代でしたが、次郎さんは政府や軍部の動きから日米開戦の可能性が高いことを事前に察知し、翌1940年(昭和15年)に東京府南多摩郡鶴川村能ヶ谷(現在の東京都町田市能ヶ谷)の古い藁ぶき農家を購入し、鶴川村が武蔵国と相模国にまたがる場所にあったこと、次郎さんが自身の性格を無愛想と評していたことから「武相荘(ぶあいそう)」と名付け、戦争のよる食料不足を自給自足で補えるよう一転農家に転業するのです。
戦争末期に成人男子総赤紙の「国民兵役招集」を受けたものの、吉田茂同様反戦派であった次郎さんは「最初から負けると分かっているような戦争の為に一滴たりとも自分の血を流すようなことはしたくはない。(NHKスペシャルドラマ白洲次郎より」と知己のあった当時東部軍参謀長の辰巳栄一(元駐英陸軍武官・陸軍中将・陸士27期)に啖呵を切って、召集を免れます。後か前か分かりませんが、自分の畑でとれた野菜を辰巳に差し入れたりもしていたそうデス。
そして、1945年9月2日、太平洋戦争はついに終戦を迎え、再び白洲次郎は政治の表舞台へと出て行くことになるのデス。
ジーンズを初めて穿いた日本人。
ホントかどうかは真意のほどは未確認ではありますが、白洲次郎さんはジーンズを初めて穿いた日本人、さらにはリーバイスを初めて穿いた日本人としても知られております。冒頭画像は今のボクと同じ48歳(1951年)の時に撮影された写真だそうで、モデルはLEVI’S 501XXと言われております。
20世紀最強のハリウッドスターとしてご紹介したことのあるジェームス・ディーンが赤色のスウィングトップと白いTシャツ、LEE 101のブルージーンズで一世を風靡した「理由なき反抗」でさえ1955年の公開作品ですから、次郎さんはその4年も前に白いTシャツにジーンズを合わせていたわけですね。恐れ入る次第デス。
再び次郎さんの履歴に戻ります。
1945年(昭和20年)、終戦直後に発足した久邇宮内閣の外務大臣に就任した吉田茂の要請で次郎さんは終戦連絡中央事務局の参与に就任し、GHQの矢面に立たされます。しかし、「日本は戦争に負けたのであって、奴隷になったのではない。」とGHQに啖呵を切るほどで、GHQの要人からも「従順ならざる唯一の日本人」や「Difficult Japanese」と言わしめ、GHQの理不尽な要求に屈することなく、次郎さんの貫くプリンシプル(原理、原則、自然の法則、主義、道義、節操)をもって対等の立場で交渉をこなしていったそうです。
他にもGHQのNo.2であったホイットニー民政局長が次郎さんの流暢な英語を褒めた時、すかさず「あなたの英語も、もう少し勉強なされば一流になれますよ。」と切り返したという逸話もよく知られていますよね。
因みに昭和天皇からのクリスマスプレゼントをダグラス・マッカーサーが「その辺にでも置いてくれ」とぞんざいに扱った為、怒鳴りつけたとの有名な逸話がありますが、武相荘のメールマガジンにて長女の牧山桂子さんが『「マッカーサーを怒鳴りつけた男」 と書かれるに至っては、白洲は筋を通してもそんな失礼な男ではなかったと言いたくなります。』と書かれていたほどなので、このエピソードの真偽のほどは定かではありません。
また、武相荘の第2ギャラリー(上の画像)に次郎さんが1947年にダグラス・マッカーサーにプレゼントしたという手作りの木製チェア(製作者は次郎さんではないと思います)と同じモノが展示されているんですが、そのメッセージカードを見てもマッカーサーに対して非常に心のこもった丁寧なメッセージが添えられていました。
右が吉田茂、右から2番目が白洲次郎
但し、1946年2月13日、次郎さんにとって最も屈辱的な事件が起こります。俗に言うマッカーサー・ノートを元にGHQにより勝手に作成された日本国憲法改正の草案がコートニー・ホイットニー民政局長より半ば強制的に日本側に渡されたのです。そして、次郎さんとしても激しく抵抗はしたもののほぼGHQの草案通りの憲法改正が行われてしまったのです。あの次郎さんのホイットニーに対する「あなたの英語も、もう少し勉強なされば一流になれますよ。」の発言が仇になったか!?苦笑
因みにマッカーサー・ノートの三原則は以下の通りデス。
1.天皇は国家の元首の地位にある。皇位は世襲される。天皇の職務および権能は、憲法に基づき行使され、憲法に表明された国民の基本的意思に応えるものとする。
2.国権の発動たる戦争は、廃止する。日本は、紛争解決のための手段としての戦争、さらに自己の安全を保持するための手段としての戦争をも、放棄する。日本はその防衛と保護を、今や世界を動かしつつある崇高な理想に委ねる。日本が陸海空軍を持つ権能は、将来も与えられることはなく、交戦権が日本軍に与えられることもない。
3.日本の封建制度は廃止される。貴族の権利は、皇族を除き、現在生存する者一代以上には及ばない。華族の地位は、今後どのような国民的または市民的な政治権力を伴うものではない。予算の型は、イギリスの制度に倣うこと。
2つ目の項目をお読み頂ければ分かるかと思いますが、幸か不幸か世界に冠たる平和憲法の礎である日本国憲法第9条はマッカーサー元帥によって生み出されたってわけです。但し、2つ目の平和主義に関しては『昭和の三傑』で書かれていたように、時の首相・幣原喜重郎の「救国のトリック」であったかもしれませんが。
そして、同年3月6日に「日本政府による憲法改正案」が公表されると、次郎さんは一週間ぶりに武相荘に戻って、勝手な憲法を押し付けられた悔しさのあまり人知れず涙を流したそうです。
「白洲次郎(上)~ 占領軍総司令部との戦い」では、以下のように書かれています。
斯(かく)ノ如クシテ、コノ敗戦最露出ノ憲法案生(うま)ル。「今に見ていろ」ト云フ気持抑(おさ)ヘ切レス。ヒソカニ涙ス
この憲法は占領軍によって強制されたものであると明示すべきであった。歴史上の事実を都合よくごまかしたところで何になる。後年そのごまかしが事実と信じられるような時がくれば、それはほんとに一大事であると同時に重大な罪悪であると考える。
その後は首相の吉田茂をして次郎さんの政界における辣腕ぶりを「白洲三百人力」と称するほど力を発揮し、1948年(昭和23年)12月には商工省に設立された貿易庁の初代長官に就任します。そして、商工省をも改組し、通商産業省(現在の経済産業省)を設立させるのです。その為、マスコミからは吉田茂首相の側近として絶大な権力を振るっていたことから「白洲天皇」「側近政治」「日本のラスプーチン」とも揶揄されていたそうです。
その頃、経団連や日経連の委員でもあり、富士製鐵社長であった永野重雄と銀座のクラブでばったり鉢合わせしたことから取っ組み合いの喧嘩になった話は有名ですよね。ことの発端は戦争賠償の対象となっていた広畑製鉄所がGHQより日本側に返還されることになり、次郎さんはドル獲得のためイギリスへの売却を主張、対して永野重雄は「広畑製鉄所が取れなかったら腹を切る。将来の日本経済のため、製鉄業を外国資本に任せられるか!」と富士製鉄社員に啖呵を切っていたほど、富士製鉄との合併を主張。クラブでの喧嘩の模様がどのようなものだったか正確な情報はありませんが、ちょっと見てみたかったところデス。
1950年(昭和25年)には第3次吉田内閣の特使として、アメリカに渡ってサンフランシスコ平和条約のお膳立てを果たし、翌年1951年のサンフランシスコ講和会議には首席全権委員顧問として出席します。
さて、サンフランシスコ講和会議と言えば、「吉田のトイレットペーパー」がつとに有名ですよね。もともとGHQ外交部のシーボルトややダレス顧問にチェックしてもらった吉田首相の演説草稿を対等の立場で書かれていないということで、「講和会議というものは戦勝国の代表と同等の資格で出席できるはず。その晴れの日の演説原稿を、相手方と相談した上に相手方の言葉で書くバカがどこにいるか。」と言い放ち、次郎さんが日本語で書き直させたという巻くと直径10cmほどになるという演説草稿です。その本物?レプリカ?の巻物も武相荘の第2ギャラリーには展示されています。
また、サンフランシスコ講和条約が締結され、日本の独立が認められると、当時秘書官として同行していた元首相の宮沢喜一氏が初めて人前で白洲が泣くところを見たと語ってもいます。因みにこの時同時に日米安全保障条約も締結されたことも忘れてはならない事実です。
お洒落過ぎる白洲次郎さん。
1978年の76歳頃、友人でもあったというイッセイミヤケのモデルも務めたことがあるという次郎さん。既に世界的な人気デザイナーであった一生さんに対しても「ツイードなんて、買ってすぐ着るものじゃなくて、3年くらい軒下に干したり雨ざらしにして、くたびれさせてから着るもんなんだよ。」とアドバイス!?笑
そう言えば人気スタイリストの祐真朋樹さんも著書の「祐真朋樹の密かな愉しみ」の中でツイードのジャケットは新品の状態で乾燥機にかけてから着るうんぬんかんぬんと書かれてたような・・・笑
さて、次郎さんが1951年のサンフランシスコ講和会議に出席するほんの少し前の5月に日本の電力事業を司っていた特殊法人 日本発送電が9分割されることになります。そして、その時誕生した9つの電力会社のうちのひとつ、東北電力の会長に次郎さんは就任することになります。また同じころ、軽井沢ゴルフ倶楽部の理事長にも就任することになります。その為、1954年の吉田内閣退陣後は「日本のラスプーチン」と揶揄された政界からは身を引き、実業界に身を置くことになります。
その後、次郎さんが東北電力の会長職に専念した時代には只見川流域の電源開発事業に力を注ぎ、奥只見ダムなどの建設を推進したんだそうですが、只見川柳津ダム建設現場を訪れた際、とある気に入った石を見つけて『死んだらこれに「俺の墓」と彫るんだ。』と言って、その石を持ち帰ったという面白いエピソードなんかもあるそうです。なんか愉快な会長さんだったんですね。因みにその石は墓石としては使われていないようです(苦笑)
1959年に東北電力の会長職を退任した後は、荒川水力電気会長、大沢商会会長、大洋漁業(現マルハニチロホールディングス)、日本テレビ、ウォーバーグ証券(現UBS)などの企業の役員や顧問を歴任し、晩年は特に軽井沢ゴルフ倶楽部の運営に力を注いだそうです。
特に厳格な会員制であった軽井沢ゴルフ倶楽部での有名なエピソードをひとつだけ。
時の絶対的な権力を誇っていた総理大臣 田中角栄氏が秘書を通じてこっそりと軽井沢ゴルフ倶楽部でのプレイを申し込みに来た時、会員でない者はいくら首相の職にあっても断じてプレイすることは許されないとその秘書をあっさり追い返したんだそうです。しかし、その後どういう経緯だったかは分かりませんが、田中角栄首相の軽井沢ゴルフ倶楽部でのプレイが許可されることになります。そして、今度はクラブ内のトイレに「タオルを無断で持ち出さないでください。」と書いてある張り紙を無視してタオルを持ち出してしまった田中首相に対して「おい、お前は日本語が読めねえのか!」と次郎さんは一喝したそうです(笑)このエピソードは身分に関係なく誰に対しても平等であれという次郎さん自身のプリンシプルに基づいた行動を表す好事例ではないでしょうか。因みに娘婿の牧山圭男氏曰く、次郎から聞いたプリンシプルとは「筋を通すこと」だそうデス。
1985年(昭和60年)11月に、正子夫人と伊賀・京都へ旅行した後、次郎さんは体調を崩し、胃潰瘍と内臓疾患で入院することになります。そして、同年11月28日、次郎さんは83歳という年齢でプリンシパルに満ちた波乱万丈な人生に幕を下ろします。
こちらは武相荘にも展示されているお亡くなりになられる5年前に書かれた次郎さん直筆の遺言書です。
遺言書
一、葬式無用
一、戒名不要
昭和五十五年五月
正子
春正
兼正
桂子様 白洲次郎
武相荘での幸せそうな
白洲正子さんと白洲次郎さん。
さて、肝心の武相荘をご紹介するのを
すっかり忘れておりました(滝汗)
で、本日は武相荘の全貌を
一気にご紹介させて頂きます。
まずは武相荘の最寄駅となる
小田急鶴川駅からデス。
もともとこの鶴川は武蔵国と
相模国にまたがる山の中でしたので
のんびりとした駅の印象デス。
鶴川駅の北口から徒歩15分ほど。
バスでも近くまで行けますが、
のんびり歩いて行くのも宜しいかと。
詳しくはコチラを参照下さい。
徒歩で国道139号線を歩いていると
左にユニクロが見えてきますので
その奥の道を左へ。
オレンジ色の家の前あたりに
警備員さんが立っていますので、
車でお越しの方は駐車場を
この警備員さんにご確認下さい。
5台準備があるそうデス。
坂を登って左の道へ。
次郎さんがお住まいの当時は
相当田舎街だったと思いますが、
今はそこそこ開けてまして
当時を偲ぶにはちょっと都会?
いよいよ入り口が見えてきます。
ついに念願の武相荘到着デス。
白洲次郎・正子旧宅として
町田市指定史跡に認定されてるんですね。
入り口すぐのところに売店があり、
入館料はコチラで支払います。
入ってすぐ左手に休憩所があり、
喫茶をオーダーすることが出来ます。
売店横にあるレトロな水汲み場。
現在の武相荘の畑はここだけデス。
昔の畑はもう住宅地になってるようです。
父 白洲文平さんより
次郎さんが17歳の時に
買い与えられたアメリカの輸入車
1916年型ペイジSix-38。
NHKドラマスペシャルの「白洲次郎」の
撮影で実際に使用されたものとか。
それにしてもこの車、
17歳の若者が乗れるような代物とは
全然違うと思うんですが(汗)
前の乗り心地は結構悪そうです(苦笑)
ちゃんと幌も付いてるんですね。
後ろの革張りシートは
まさに高級ソファのようです。
足元も相当広いですね。
フェラーリのブリキの看板?
昔はもっと山深かったのかもしれません。
日本の伝統的な門形式の一つである
長屋門もちゃんとありました。
臼で出来た新聞受け!?
この長屋門を越えたところに
武相荘の正子さんと次郎さんの世界が
広がります。
さて、いよいよ入ります。
ご年配の方々でいっぱいです。
女性の観光客の方には
白洲正子さん目当ての方が
やはり多いのでしょうか。
こちらが武相荘の全体スケッチ。
一番右が長屋門で
一番左が母屋になります。
長屋門をくぐってすぐ右手に
見えてくるのが納屋。
芝刈り機やバーベキューのコンロなど、、、
いろんなガラクタが今もいっぱい!
水色のはかき氷器!?
納屋の上にある第2ギャラリーに
続く階段部分デス。
納屋の上にある第2ギャラリーです。
1951年のサンフランシスコ講和会議で
吉田茂首相が読んだ長さ30mの巻物
「吉田のトイレットペーパー」も
こちらに保存されています。
本物かレプリカかは未確認デス。
申し訳ありません。
※他にもレプリカは
麻布の外交史料館に展示されてまして、
本物は外交史料館横の資料室にて
厳重に保管されているとのことデス。
納屋の隣の建物がお茶処。
要予約ですが、1日30食限定の
カレーランチを食べることが出来ます。
鶏もも肉カレー 2,000円
海老カレー 2,050円
その他に抹茶・コーヒーと甘味も
用意されてるそうです。
第1ギャラリー前の中庭。
第1ギャラリーではNHKで放送された
白洲次郎や白洲正子特集などの映像を
視聴することが出来ます。
いよいよ母屋のほうへ。
木が生い茂って
母屋の全体像が掴めません(滝汗)
冒頭画像の写真はこの縁側の奥で
撮影されたような雰囲気デス。
武相荘の母屋は藁ぶき屋根デス。
2006年12月2007年1月に
藁は葺き替えられたそうです。
母屋の入り口になります。
土足厳禁ですので、
靴は専用袋に入れて持って入ります。
なお、母屋内は撮影禁止デスので
ぜひ邸内はご自分の目でお確かめ頂くか、
コチラをご覧くださいませ。
昭和の時代が広がってますよー
さて、続いて今度は母屋の裏に広がる
裏山をご紹介します。
白洲次郎・正子さん夫妻の遺髪が
下の埋められたという石塔デス。
裏山近くにある竹林
裏山の入り口に
何故か鈴鹿峠の石柱を発見!
実は父白洲文平さんから
結婚祝いにプレゼントされた
ランチア・ラムダで東京へ
新婚旅行に出掛けたものの
三重県の鈴鹿峠を越える際に
ラムダがエンストを起こし、
大変な目にあったことから
その記念?に裏山を鈴鹿峠に
見立て石柱を立てたとか。
裏山の奥深いところに見えるのが
次郎さんの長女であり
旧白洲邸武相荘館長でもある
牧山桂子さん夫妻が住むロッジです。
間違っても近づかないようにデス。
さて、長屋門をくぐって帰ります。
以上、およそ2時間ほど
見学させて頂きましたが、
それでもまだまだ十分でなく、
機会があれば何度でも
訪問したいと思えるほど
素敵な空間でしたよ。
白洲次郎さんと正子さんが
半生をともにしたここ武相荘、
皆様にもぜひお勧めしたいところデス。
施設名:旧白洲邸 武相荘(ぶあいそう)
郵便番号:〒195-0053
住所:東京都町田市能ヶ谷7丁目3番2号
電話:042-735-5732
メール: info@buaiso.com
開館時間:10時~17時(入館は16時半まで)
休館日:月曜日・火曜日
(祝日・振替休日は開館)
夏季・冬季休館あり ※企画展ページを参照下さい。
入館料:1,050円(税込)
※小学生以下の入館はご遠慮ください。
※団体でのご訪問は予めご予約必要。
※団体割引&シルバー割引の設定なし
※乗用車5台の駐車スペースあり
(バスは駐車できません)
※館内でのご飲食はご遠慮ください。
(飲食物の持ち込み等できません)
※母屋の展示へは靴を脱ぐ必要あり。
※バリアフリーにはなっていません。
PS.
NHKオンデマンドにて「ドラマスペシャル 白洲次郎 第1回 カントリージェントルマンへの道」が無料でご覧頂けますよ。ものは試しデス。ぜひご覧下さいませ。
因みに第2回の「ドラマスペシャル 白洲次郎 第2回 1945年のクリスマス」および第3回の「ドラマスペシャル 白洲次郎 第3回 ラスプーチンの涙(最終回)」放送分は有料ではありますが、ご覧頂くこと可能ですよ。