歴史探訪:忠臣蔵 第2弾、今も現存する『吉良邸』跡。

吉良邸 (3)

忠臣蔵の大一番の舞台となった『吉良邸』、実は本所松坂町公園と名前のもとにホンマに今も残ってるんデスよ。

江戸城松之大廊下での刃傷事件によって即日切腹となった赤穂藩主・浅野内匠頭。

その主君 浅野内匠頭の無念を晴らすべく、赤穂藩筆頭家老の大石内蔵助以下赤穂浪士47名は元禄15年12月14日(現在の今の時制で言えば12月15日、西暦でいうと1703年1月30日)深夜4時頃、現在の墨田区両国にあったここ吉良邸に討ち入りし、吉良上野介を家人や警護の者もろとも殺害する元禄赤穂事件を起します。

吉良邸 (1)

吉良上野介の首を洗ったとされる井戸です。

昔は「首洗い井戸」と書かれてましたが、最近「みしるし洗いの井戸」に改名したようデス。

吉良邸  (2)

元々は2,550坪の広大なお屋敷だったそうですが、赤穂浪士による討ち入りの後は江戸幕府に没収され、その後分割されて住宅などが立ち並んであしたが、昭和9年(1934年)に地元の有志らによって旧邸内の「吉良の首洗い井戸」を中心に土地を購入、それを東京市に寄贈し、翌昭和10年(1935年)に現在の本所松坂町公園として開放され、昭和25年(1950年)に墨田区へ移管されたそうです。

住所は東京都墨田区両国三丁目13番9号。

両国 回向院

さて、台所横の炭小屋に隠れていた吉良上野介を討ちとった赤穂浪士一行は遺体を寝所に安置した後、吉良の首を潮田高教の持つ槍の先に掲げ、最初は近くの回向院へ向かったが受け入れられず、結局浅野内匠頭の菩提寺である高輪泉岳寺に向かったそうです。

※回向院・・・鼠小僧のお墓があることで有名デス。

赤穂浪士休憩之地

赤穂浪士休憩之地

赤穂浪士達が一ツ目通りを引き揚げの途中、浪士のひとり大高源吾と俳諧の友であった乳熊屋 初代竹口作兵衛が浪士達を店内に招き入れ、甘酒粥の接待をしたとされる場所デス。

忠臣蔵にまつわる場所が今も数多く残されていることからも元禄赤穂事件が如何に世間を騒がした大事件でその後もずっと語り継がれていたことが伺えますね。

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