本能寺の変サミット2020。

織田信長 vs 明智光秀

本能寺の変の原因が判明!?


NHKBSプレミアムにて元旦放送されていた『本能寺の変サミット2020』。気鋭の歴史研究家7人が一堂に会し、日本史史上最大の謎「明智光秀は何故謀反を起こしたか?」の解明に挑んだ番組デス。過去唱えられた様々な説をひとつずつ丹念に検証し、学術的な観点で正否を判断していく非常に分かりやすい内容でしたので備忘録も兼ねてシェアです。

01.怨恨説
02.斎藤利三めぐる遺恨説
03.鞆幕府 推戴説
04.構造改革 反発説
05.暴走阻止説
06.突発的犯行説
07.朝廷 共謀説
08.イエズス会 共謀説
09.秀吉黒幕説
10.家康黒幕説
11.四国説

以上、接待下手で足蹴にされたとか、殴られて鬘が飛んで禿がバレたとか、そのほとんどが二次資料以下をもとにした後世に創作された俗説ばかり。結論的に言いますと、2014年に発見された画期的な一次資料「石谷家文書」をもとに推論された「四国説」がやはり最有力だったかなと。なんと7人中5人の歴史研究家が四国説支持を表明。さて、いったいその四国説の中身とは?

もともと織田信長と土佐の長宗我部元親は、光秀の重臣・斎藤利三(春日局の父)とその兄・頼辰、元親のもとに身を寄せていた頼辰の義父・石谷光正を通じて、元親の四国統一を信長が許可するなど同盟関係にあったとされています。しかしながら、本能寺の変前年の天正9年、元親の四国統一が目前になると、元親・信長双方の敵対関係にあった阿波・淡路領主・三好康長が信長に白旗を上げ服従宣言、すると信長は元親に対し康長より奪った阿波の占領地半分を返してれ!と一方的に要求。これに憤った元親はその要求を拒否。仲介役であった光秀は両者が歩み寄るよう必死に説得しますが、結局信長は天正9年5月はじめ、信長三男・信孝を総大将に1万の兵を擁して長曾我部元親の討伐を指示します。討伐の出陣予定日は天正元年6月2日。そうデス。本能寺の変があったその日デス。しかし、光秀の懸命な努力から討伐出陣12日前の5月21日、元親より光秀重臣・斎藤利三に以下のような書が送られていたことが一次資料「石谷家文書」によって判明します。

石谷家文書

内容を要約すると、「信長との間を終始取り計らってくれたことは忘れない。阿波国内の主要な山城は明け渡す。長曾我部元親」

つまり光秀は出陣期限ぎりぎりのところで元親の譲歩を引き出すことに成功してたんデス。がしかし・・・その後の光秀の必死の説得にも拘わらず元親討伐の予定を信長が取りやめることはありませんでした。つまり、信長による元親討伐の最終判断が大きな引き金となって、本能寺の変が引き起こされてしまったのでは?とほぼほぼ結論付けられていた次第デス。答え合わせは2020大河ドラマ「麒麟がくる」でどうぞ。

それにしても、元親討伐軍出陣その日の早朝、電光石火の如く謀反を完遂させるなんて光秀千両役者、ドラマチックすぎる戦国武将だと思いません?

 

□□□ 東雲乃呟 □□□□□□□□□□

光秀殿、貴方の功績は何故か捻じ曲げられて散々ネタにされてきましたけど、ついに名誉挽回のチャンス到来デス!