歴史探訪:桜田門外の変、会津藩の悲劇はまさにここから始まった!

桜田門 桜田門外の変

あの事件現場デス。


先日は1860年に起きた桜田門外の変で暗殺された江戸幕府大老兼彦根藩主 井伊直弼の屋敷跡から眺めた桜田門方面ののどかな景色をご紹介いたしましたが、今回はその暗殺現場をご紹介します。

それがまさにココ。

はい、警視庁のド真ん前ですね。向こう側には国会議事堂も見えてます。

で、もともとどうして桜田門外の変なんていう物騒な暗殺事件が起きたかと申しますと、時の大老 井伊直弼が朝廷の許可なく日米修好通商条約に調印し、また家茂の将軍継嗣指名を断行、さらに安政の大獄とも言われる強権を発動し、反対勢力であった徳川御三家の前水戸藩主の徳川斉昭を筆頭に越前や土佐などの有力藩主をことごとく謹慎、吉田松陰や橋本左内などの啓蒙家を死罪、朝廷の高官たちまでも隠居や辞官を命じる圧政を行います。

そして、そのの傍若無人なやり方に業を煮やした水戸藩士たちが脱藩の末に井伊直弼襲撃を企て、1860年3月の雪の降る早朝に登城してきた井伊直弼をまさにこの画の桜田門外にて水戸藩脱藩浪士17人、薩摩藩士1人、合計18人が井伊直弼の乗る駕籠を襲い、ものの十数分で井伊直弼を暗殺したのでした。

因みに井伊直弼の首を討ち落としたのはひとり薩摩藩から参加した有村次左衛門と伝わります。

桜田門

今は平和な桜田門

そして、その暗殺事件の結果、彦根藩井伊家は直弼の失政を理由に石高を35万石から25万石に減封されるとともに京都守護の家職も剥奪されることになり、彦根藩の代わりに会津藩主・松平容保が嫌々ながらも京都守護職に充てられ、NHK大河ドラマ『八重の桜』よろしく京の都にて薩長から天敵とされたことで、会津藩の悲劇に繋がっていくのでした(涙)

桜田門から赤坂方面を望む

こちらは襲撃場所から井伊直弼の上屋敷を眺めた画。黒い時計台の場所が旧彦根藩井伊家上屋敷です。

以上、この桜田門外の変を機に大久保利通が暗殺された紀尾井坂の変まで暗殺と殺戮が繰り返される血なまぐさい時代が到来することとなったのでした。