『 昭和の三傑 』を読まずして昭和史を語る事勿れ。

昭和の三傑―憲法九条は「救国のトリック」だった: 堤 堯

この著書読まずして
昭和史は決して語れない。


昭和の三傑
憲法九条は「救国のトリック」だった
著者:堤 堯

明治維新の三傑が、
西郷隆盛、
大久保利通、
木戸孝允の3人であるならば、

昭和の三傑は、
敗戦処理の難事に対処した
以下3名の首相であると。

死と背中合わせになりながら
終戦の大業を成し遂げた
鈴木貫太郎。

戦力の不保持、
つまり憲法第9条2項を
マッカーサーに盛り込ませた
幣原喜重郎。

サンフランシスコ平和条約を
締結させた吉田茂。

で、ただ今、
一番最初に登場する
鈴木貫太郎首相のところを
読んでる最中なんですが、
あまりに壮絶過ぎて愕然とします。

Kantaro_Suzuki_suit 鈴木貫太郎

1936年2月26日、
陸軍皇道派の影響を受けた
青年将校らが1483名の兵を率い、
「昭和維新断行・尊皇討奸」を
旗印に決起した二・二六事件。

当時侍従長であった鈴木貫太郎は、
陸軍大尉安藤輝三の指揮する
十数人の部隊に麹町三番町の
侍従長官邸を襲撃される。
時間は午前5時だ。

将兵:閣下でありますか?

鈴木:ああそうだ。私は鈴木だ。
  何事が起こってこんな騒ぎをしているのか
  話したらいいじゃないか。

将兵:ヒマがありませんから撃ちます。

パン・パン・パン・パン

4発の乾いた銃声が室内に響く。

なんの抵抗をする間もなく、
鈴木貫太郎は左脚付根、左胸、
左頭部、肩に4発の銃弾を浴びる。

遅れて安藤輝三大尉が入室。

将兵の一人が軍刀を抜き、
鈴木に止めを刺そうとするが、
妻 たかが「おまちください!」と
大声で叫び、「老人ですから
とどめは止めてください。
どうしても必要というなら
わたくしが致します。」と
気丈に言い放つ。

安藤はうなずいて軍刀を収めると、
「とどめは残酷だからよせ、
みんな閣下に対して敬礼しろ。
鈴木貫太郎閣下に敬礼する。
気をつけ、捧げ銃」と号令した。

そして、安藤はたかの前に進み、
「まことにお気の毒なことを
いたしました。我々は閣下に対して
何の恨みもありませんが、
国家改造のために
やむを得ずこうした行動を
とったのであります」と静かに語り、
兵士を引き連れて官邸を引き上げた。

反乱部隊が去った後、
鈴木は自分で起き上がり、
「もう賊は逃げたかい」と尋ねた。

たかは止血の処置をとってから
宮内大臣の湯浅倉平に電話をかけ、
湯浅は医師の手配をしてから
鈴木のもとへと駆けつけた。

鈴木の意識はまだはっきりしており、
湯浅に「私は大丈夫です。
ご安心下さるよう、
お上に申し上げてください。」
と言うものの、声を出すたびに
傷口から血が大量に溢れ出ていた。

そこはもう血の海だった。

近所に住んでいた
帝国大学の塩田広重医師とたかが
血まみれの鈴木を円タクに押し込み
日本医科大学飯田町病院に運んだが、
出血多量でついに意識を喪失、
心臓も停止してしまった。

直ちに塩田広重医師によって
甦生術が施され、
枕元ではたかが必死の思いで
呼びかけたところ、
奇跡的に鈴木は息を吹き返した。

4発の銃弾が奇跡的に急所を
外れていたことが幸いしたのだ。

その後、昭和天皇は
「最も信頼する老臣を
殺傷することは真綿にて我が首を
絞めるに等しい行為」と激怒、
討伐命令の勅命が発せられた。

2月29日、戒厳司令部は
約2万4000人の兵力で反乱軍を
包囲して戦闘態勢をとった。

そしてラジオや飛行機からのビラ、
アドバルーンなどで
「今からでも遅くないから原隊へ帰れ」
「お前達の父母兄弟は国賊となるので
皆泣いておるぞ」などと、
下士官らに帰順を呼びかけた。

このため大部分の下士官らは帰順し、
青年将校も野中大尉が自決したほかは、
鈴木を襲撃した安藤輝三大尉も
拳銃での自決が失敗に終わり、
結局憲兵隊に検挙されることになる。

そして、この事件の結果、
昭和天皇も止められないほど
軍部の影響力は強大となり、
5年後の太平洋戦争へと繋がっていく。

さて、二・二六事件において
鈴木は九死に一生を得たのだが、

この事件の結果、
昭和天皇も歯止めが効かないほど、
軍部の影響力は強大となり、
メディアや世論の後押しもあって
1941年12月8日未明、
陸軍第25軍司令官山下奉文による
マレー作戦を皮切りに、
少し遅れて海軍の真珠湾攻撃が始まり、
ついに米英との戦争に突入する。

戦況はご存じの通り、
1942年6月5日に始まった
ミッドウェー海戦の惨敗を境に
日本は敗北へ向かって坂を転げ落ちる。

1945年4月初め、
戦況悪化の責任をとり辞職した
小磯國昭前首相の後継を決める
重臣会議において、

当時枢密院議長に就任していた
鈴木は首相に推薦されるも、
「とんでもない話だ。お断りする。」
と激しく固辞する。

固辞するのも当たり前である。
既に77才の平均寿命を遥か生きた
いつ死んでもおかしくない年齢の
お爺ちゃんなのであるから。

その直後、鈴木は天皇に呼び出され、
首相就任、組閣の大命を下されるも、
元々海軍軍令部長まで上り詰めた
経験のある軍人出身の鈴木は、
しかも当時海軍では「鬼貫」とも
仇名された猛者だった鈴木は、

「軍人が政治に出るのは国を滅ぼす基なり」

と、やはり固辞する。

しかし、昭和天皇は以下の通り
鈴木に対して懇願する。

「鈴木の心境はよくわかる。
しかし、この重大なときにあたって、
もうほかに人はいない。頼むから、
どうか曲げて承知してもらいたい。」

かつて侍従長として
天皇に仕えたことのある
鈴木は天皇に「頼む」とまで
頭を下げられれば、
もはやそれ以上
固辞することは出来なかった。

大命降下のその夜、
「俺はこれからパドリオになる。」と
鈴木は息子の一氏に洩らしている。

パドリオとはムッソリーニ失脚後の
1943年にイタリア首相となり、
日独伊三国同盟を破棄し、
連合国側と休戦、
逆に対独宣戦をしたという
日本やドイツからすれば
裏切り者の政治家の名前である。

4月7日の就任当時から鈴木は、
戦争終結を目指すつもりであり、
「首相、皇族をはじめ、
自分たちの間では和平より道は
もうないという事に決まって居る」
と、安倍源基内務大臣も
その決意を語っている。

鈴木は、非国会議員、
江戸時代生まれという二つの点で
首相を務めた最後の人物となった。
また満77歳2ヶ月での就任は
2015年現在、日本の総理大臣の
就任年齢では最高齢の記録である。

鈴木は首相就任にあたり、
以下のように表明した。

今日、私に大命が降下いたしました以上、
私は私の最後のご奉公と考えますると同時に、
まず私が一億国民諸君の真っ先に立って、
死に花を咲かす。

国民諸君は、私の屍を踏み越えて、
国運の打開に邁進されることを
確信いたしまして、
謹んで拝受いたしたのであります。

首相就任から間もなくの4月12日、
米国ルーズベルト前大統領死去。

鈴木貫太郎は、この報に接すると、
短波放送で次のメッセージを送った。

「私は深い哀悼の意を
アメリカ国民に送るものであります」

ルーズベルトの死を罵った
ヒ〇ラーとは対照的だった。

アメリカに亡命していた
ドイツ人作家トーマス・マンは、
「ドイツ国民よ、東洋の騎士道を見よ」
と題して声明を発表し、
ニューヨークタイムズなどでも
大きく報じられ、
鈴木の行動は各国で賞賛された。

鈴木は当初日ソ中立条約を結んでいた
ソ連のスターリンに米英との
講和の仲介を働きかけていた。

しかし、一方でスターリンは、
7月17日から戦後処理の為に
開催されたポツダム会談において
米トルーマン大統領に
日本から終戦の仲介依頼が
あったことを明かし、
さらに日本をあやす為
「ソ連の斡旋に脈があると
信じさせるのがよい」と提案、
トルーマンもこれに同意していた。

7月27日、米国大統領、英国首相、
中華民国主席の名において
「日本軍の無条件降伏」等を求めた
全13か条から成るポツダム宣言が
日本に対して発せられる。

このポツダム宣言に対して日本は
天皇の処遇が明確でなかった為、
また内外の、特に陸軍の反応を見る為、
「しばらくそっとしておく」つまり、
音なしの構えで臨むこととなった。

ところが、
陸軍の強硬派がそれを許さず、
ポツダム宣言拒否を迫って、
鈴木に会見を強要してきたのだ。

仕方なく鈴木は記者会見に臨む。
本来は「ノーコメント」と
回答したかったものの
当時は敵性語禁止の世であった為、
「重視する要なきものと思う。」
というような曖昧な意味を答弁した。

この曖昧な発言が災いし、
翌日の朝刊で朝日新聞の「黙殺」、
読売・毎日新聞による「笑止」
といった別の言葉で報じられ、

その言葉を連合国側は
「reject(拒絶)」と受け取り
広島と長崎への原爆投下、
さらにはソ連の参戦を招いたとして、
鈴木は「愚図の宰相」という
不名誉な呼び名を頂戴してしまう。

鈴木はこの曖昧な発言を
後々に至るまで、
余の誠に遺憾と思う点であると
無念の思いを語っているが、

そもそも無条件降伏など
日本が到底受け入れるわけがない、
とする米国側の思惑があり、
実際には広島、長崎への原爆投下を
何が何でも実行することを
狙ったものと言われている。

二発の原発とソ連の参戦、
これを機に、ついに鈴木は
これ以上の陸軍の暴走を止め、
本土決戦による日本国民
一億総玉砕となってしまう前に
何としてでも戦争を終結させようと
乾坤一擲の大芝居にでるのであった。

そして、
二発の原発投下とソ連の参戦。

日本絶体絶命、それでもなお
大本営、メディア、日本国民は、
一億総玉砕してでも本土決戦で
名誉の死を選ぶ声が強かった。

著者の堤堯も周囲の大人たちが
本土決戦、一億総玉砕を叫ぶ中、
子供ながらに疎開先の仙台で
死を覚悟していたというから
異常な時勢であったという他ない。

しかし、鈴木はこれを機に
陸軍の暴走に歯止めをかけ、
迫りくる本土決戦による
一億総玉砕を食い止める為に
何としてでも戦争を終結させようと
乾坤一擲の大芝居にでるのであった。

それは、かつて侍従長と侍従武官、
ともに天皇を支えた関係にあった
陸軍大臣 阿南惟畿との二人羽織と
ご聖断の演出と言われる策である。

Korechika_Anami 阿南惟畿

陸軍大臣 阿南惟畿

8月10日未明から行われる
天皇臨席での最高戦争指導会議前に
阿南が自ら陸軍大臣を辞職すれば、
瞬時に鈴木内閣は瓦解となって
ポツダム宣言受諾は実現せず、
戦争は自動的に継続のはずだった。

しかし、阿南陸相は
戦争継続を強硬に訴えながらも
決して辞職をしようとしない。

それは陸軍強硬派を
抑える為の阿南の腹芸であり、
暗黙裏に鈴木の和平工作に同調し、
戦争終結を目指していた所以だと
著者の堤堯は想像する。

そして、8月10日0時3分
いよいよ御前会議が開始される。
出席者は天皇以外に以下の7人。

鈴木貫太郎首相
東郷茂徳外務大臣
阿南惟畿陸軍相
米内光政海軍相
梅津美治郎参謀総長
豊田副武軍令部総長
平沼騏一郎枢密院議長

「ポツダム宣言」受諾の条件に
国体護持の条件を付けることには
出席者全員が賛同するものの

東郷外相は他の条件を付ければ
連合国側に拒絶される可能性高いと
「国体護持」のみの条件を提案。

対して阿南陸相、梅津参謀総長、
豊田軍令部総長の3人は、
「国体護持」以外に、
領土・占領・武装解除・戦犯の
処分に対しての条件を求めた。

最終的に採決で決めることとなる。

東郷案賛成は、東郷・米内・平沼の3票。
東郷案反対は、阿南・梅津・豊田の3票。

ここで鈴木が東郷案賛成とすれば
ポツダム宣言受託が決定となる。

しかし、それだと間違いなく、
陸軍強硬派による反乱が発生する。
よって、鈴木は自分の票で
決定を下すことをしなかった。

10日午前2時頃、鈴木は起立し、
以下の言葉を述べた。

誠に以って
畏多い極みでありますが、
これより私が御前に出て、
思召しを御伺いし、
聖慮を以って本会議の決定と
致したいと存じます。

なんとご聖断を仰いだのだ。

そして、昭和天皇は涙ながらに答えた。

朕の意見は、
先ほどから外務大臣の
申しているところに同意である。

東郷案に賛意を示され決着する。

しかしまだ予断は許されなかった。

日本政府による
国体護持の要請に対して、
連合国側は以下の回答を示した。

「天皇および日本政府の国家統治の権限は、連合国最高司令官に従う (subject to) ものとする」

外務省はこの文章を
「制限の下に置かれる」と訳し、
あくまで終戦を進めようとしたが、
陸軍では「隷属するものとす」とし、
天皇の地位が保証されていないとして
戦争続行を唱える声が多半を占めた。

同日午後3時から開催された閣議
および翌13日午前9時からの
最高戦争指導会議では議論が紛糾。

その間、阿南は若手将校たちより
クーデターへの賛同を求められるが、
阿南、梅津ともに計画に反対する。

その危機を察知した鈴木は、
再び昭和天皇にご聖断を要請する。

8月14日、再び御前会議が招集され、
天皇は連合国の回答受諾を是認し、
ついに日本の無条件降伏が
決定したのだった。

その御前会議の後、
紙に包んだ葉巻の束を手に阿南が
鈴木のもとに挨拶にやってきた。
そして、鈴木にこう述べたという。

終戦についての議論が
起こりまして以来、
私は陸軍の意見を代表し、
強硬な意見ばかりいい、
お助けしなければならないはずの総理に対し、
いろいろご迷惑をかけてしまいました。
ここに慎んでお詫びいたします。

ですがこれも国と陛下を思ってのことで、
他意はございませんことをご理解ください。
この葉巻は前線から届いたものであります。
私は嗜みませんので、
閣下がお好きと聞き持参いたしました。

その阿南を見送った鈴木は、
「阿南君はいとま乞いに来たんだねえ。」
と、ひとこと呟いた。

翌日8月15日未明、阿南惟幾は
以下の遺書の言葉を残し自刃する。

「一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル 昭和二十年八月十四日夜 陸軍大臣 阿南惟幾 神州不滅ヲ確信シツツ」

辞世の句は、「大君の深き恵に浴みし身は 言ひ遺こすへき片言もなし」。

同日8月15日の早朝、
案の定、佐々木武雄陸軍大尉を
中心とする国粋主義者達が企てた
クーデター「宮城事件」が発生し、
鈴木のいた総理官邸
及び私邸までも襲撃され、
間一髪のところを救い出される。

同日正午、
昭和天皇の朗読による
終戦の詔勅がラジオで放送された。

同日午後、
鈴木は天皇に辞表を提出し、
鈴木内閣は安堵のうちに総辞職した。

それから3年後の
1948年4月17日、
鈴木貫太郎、肝臓ガンで死去。
(享年81歳)

鈴木は死の直前、
「永遠の平和、永遠の平和」と、
非常にはっきりした声で
二度繰り返したという。

また、遺灰の中に
二・二六事件の時に受けた弾丸が
混ざっていたとも言われる。

鈴木と阿南、
二人の不退転の覚悟が、
数多の命を救い、
分断国家になることから寸前、
日本を救ったと著者の堤堯は言う。

そして、鈴木貫太郎首相は
決して「愚図の宰相」なんかでは
なかったと強く著者は主張する。

余談:

日本橋浜町に「スコット」という
フレンチレストランがあるのだが、
海軍ゆかりのレストランだそうで、

「慈故能勇 大正五年秋 鈴木貫太郎」

という鈴木の書の掛け軸があるそう。
ぜひ一度、お邪魔してみたいと思う。

繰り返しになりますが、
明治維新の三傑が、
西郷隆盛、
大久保利通、
木戸孝允の3人であるならば、

昭和の三傑は、
太平洋戦争敗戦処理の
難事に対処した以下3名の
首相であると本書は言い切る。

死と背中合わせになりながら
終戦の大業を成し遂げた
鈴木 貫太郎。

戦力不保持の発案者、
つまり憲法第9条2項を
マッカーサーに盛り込ませた
幣原 喜重郎。
(しではら きじゅうろう)

サンフランシスコ平和条約を締結、
戦争で負けるも外交で勝った
吉田 茂。

さて、太平洋戦争を
命を掛けて終結に導いたのは、
時の首相 鈴木貫太郎と
陸軍大臣 阿南惟畿との二人羽織と
ご聖断演出の賜物であると
著者の堤堯が推理したことは
鈴木貫太郎編 第1章第2章
第3章で紹介したが、

戦後の日本の復興における
最大のキーマンとも言えるのが
今回2人目にご紹介する
この第44代総理大臣
幣原喜重郎ではなかろうか。

幣原喜重郎 800px-Kijuro_shidehara

わずか8カ月の短命政権であった為、
国民の記憶には薄い首相であるが、
この幣原喜重郎の先見の明なくして
戦後の日本の復興はない!
と言っても過言ではないと言うのだ。

以下、著者 堤尭の考える
宰相 幣原喜重郎による
「救国のトリック」の外交妙技を
とくと堪能していただきたい。

第1項:日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

第2項:前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

ご存じ日本国憲法第9条である。

一般的に日本国憲法の条文は、
当時のGHQ最高司令官であった
ダグラス・マッカーサーが、
「マッカーサー草案」を元に
時の幣原内閣に無理やり押し付けた
外来憲法であると言われているが、

こと憲法第9条に関しては、
1946年1月24日正午から始まった
マッカーサーと幣原喜重郎、
二人だけの3時間に及ぶ
密談から生まれたことは
ほぼ史家の定説になっている。

そこで、著者の堤 堯曰く、
戦争放棄・戦力不所持の2つを
最初に提案したのは、
マッカーサーからではなく、
幣原のほうからだと言うのだ。

まず第1項に当たる
「戦争放棄」については
1928年のケロッグ=ブリアン条約
にも見られるように
特に目新しいものではなく、
マッカーサーも特に驚くことは
なかったであろう。

しかし、第2項に当たる
「戦力の不所持」に関しては、
被占領国側からの提案としては
前代未聞と言っていい。
さすがのマッカーサーも
度肝を抜かれたことだと思う。

幣原のその提案理由は、
天皇制の廃止を強硬に迫るソ連、
オーストラリアを説得する為、
つまり、天皇制維持との
引き換えに「戦力の不所持」を
幣原は提案したと思われる。

また、憲法制定当時に
中部日本新聞の政治部長だった
小山武夫氏による、
憲法調査会公聴会での以下発言も
大変重要な資料となる。

第9条が誰によって
発案されたかという問題が、
当時から政界の問題になっておりました。
そこで幣原さんにオフレコで
お話を伺ったわけであります。

その『第9条の発案者』というふうな
限定した質問に対しまして、
幣原さんは、『それは私であります。
私がマッカーサー元帥に申し上げて、
そして、こういうふうな
第9条という条文になったのだ』
ということをはっきり申しておりました。

実は米政府もマッカーサー自身も
昭和天皇制を巧みに利用して
日本を統治したかったことから
ソ連、オーストラリアに対する
譲歩を引き出す手段として
幣原の提案はまさに渡りに船と
言えるものだった。

結果、象徴天皇制、華族制廃止、
戦争放棄・戦力不所持を原則とした
「マッカーサー三原則」に則り、
GHQ主導の新憲法草案である
「マッカーサー草案」が策定され、

終戦の翌年1946年5月16日の
第90回帝国議会の審議を経て、
幣原がマッカーサーに
極秘に提案した戦力不所持が
晴れて憲法9条第2項として
組み込まれることになったのである。

その代償として幣原は、
常にマッカーサーの
言いなりだったとして、
後々「軟弱外交の幣原」という
不名誉な渾名を頂戴することになる。

因みにその大役を終えた幣原内閣は、
その6日後の5月22日、首相在職
僅か8カ月で内閣を総辞職している。

がしかしである。

著者の堤堯はここに異を唱える。

実は幣原の提案した
第9条の本当の狙いは、
全く別のところにあったのだと。

その狙いはこうだ。

当時の世界を取り巻く情勢は、
1946年3月にミズーリ州フルトンの
ウェストミンスター大学で行われた
ウィンストン・チャーチル元首相
「鉄のカーテン」演説にもある通り
東西両陣営に分かれて対立し、
米ソが緊張状態にあった頃である。

国際情勢に長けた幣原からすれば
いつ米ソを中心に東西両陣営が
戦火を交えてもおかしくないと。

極端なことを言えば、
近い将来、第三次世界大戦が、
勃発してもおかしくない情勢だと
幣原は予想していたのであろう。

つまり、日本が軍隊を持っていれば、
アメリカ言いなりの軍隊として
再び日本が戦争に巻き込まれる
可能性が多分にあったということだ。

しかし、

どんなに危険な情勢であろうが、
当時の日本の政界・世論において
「戦力不所持」など認められない。

松本烝治国務大臣が策定し、
GHQからけんもほろろに
却下された松本試案でも
そんな項目は一切見当たらない。

そこで幣原は考えた。
マッカーサーをダシに使って
日本の政界、世論をも欺いて、
巧みに「戦力不所持」を
新憲法に組み入れさせようと。

かくして、
「マッカーサー草案」において
「戦争放棄・戦力放棄」の項目が
組み入れられたのである。

つまり、幣原の怪演のお蔭で
戦後の日本は、戦争リスクを
限りなくゼロにすることが出来、
平和を謳歌できたのだと
著者の堤 堯は推理する。

その幣原の後を継いだ首相
吉田茂が、「戦力不所持」を盾に
朝鮮戦争への参戦を拒んだどころか、
朝鮮特需による輸出増によって
国益に大きく貢献したことは
もはや周知の史実である。

当時の韓国の軍事予算は
国家予算の40%に近い数字、
対して日本の防衛予算は1%未満。
どちらが早く復興できるか、
火を見るより明らかである。

※但し、朝鮮戦争においては
軍隊としては参加しなかったものの
海上保安庁の掃海部隊からなる
「特別掃海隊」が
国会の承認を得ることなしで、
機雷を除去することを目的として
国連軍の名のもとに派遣され、
残念ながら56名が命を落としている。

もちろんベトナム戦争も
同様の結果を得ることになった。

残念ながら
この裏工作に関して
幣原は一切口を閉ざし、
後年も語られることはなったが、
まさに歴史は、
現実的平和主義者 幣原喜重郎の
思惑通りに進行し、
もはや誰も幣原を指して、
「軟弱外交の幣原」などと
果たして言えるだろうか。

そして、
幣原が策定した憲法第9条は、
見事に次期首相 吉田茂に
引き継がれることになるのであるが、
ぜひこの続きは、
本書を読んでご確認頂きたい。

サンフランシスコ平和条約締結、
戦争で負けるも外交で勝った
日本のチャーチルこと、
否、徳川家康の再来とも言える
吉田茂の狸ぶりを
思い存分堪能出来るかと。

因みにお馴染みの白洲次郎は、
残念ながら少ししか登場しません。

繰り返しますが、
『 昭和の三傑 』を読まずして
昭和史を語る事勿れである。