真田丸と関ヶ原の戦い。

真田丸 堺雅人 真田信繁

新ポスター完成デス。


9月最大の見どころとされた
天下分け目の関ケ原の戦い
こともあろうか爆速で終了(涙)

その瞬間、大河マニアの方々の
ええええええええ!の絶叫が
日本全国に轟いたことは
疑う余地はないでしょう(苦笑)

結果、秀頼は65万石まで減封され、
徳川家康は400万石へ自ら加増、
さらに1603年には征夷大将軍に。

もはや天下の趨勢は
完全に家康の一人勝ち状態に。

トドメは「国家安康」
「君臣豊楽」の銘文で知られる
方広寺鐘銘事件でのいちゃもん。

未だにその銘文が書かれた鐘が
方広寺に残ってるってことは
単なる言い掛かり以外の何物でも
なかったってことですよね。

そして、ついに豊臣秀頼が、
淀が、打倒家康に執念を燃やし、
真田信繁が鬼神の如く大活躍する
大坂の陣に向けて疾走します!

sekigahara 関ケ原の戦い 関ヶ原布陣図

さて、天下分け目の関ケ原、
どうしてたった6時間ほどで
決着がついてしまったのか、
以下、持論展開させて頂きますと。

1600年10月21日の早朝、
福島正則の宇喜多隊に向けた
銃撃によって開戦の幕が下されます。

まず緒戦は互角の戦いもしくは
17,000の宇喜多隊の活躍により
西軍有利に進められます。

がしかし、

家康本隊の後方にある
南宮山に陣を張っていた
15,000の兵を擁する
西軍主力の宰相・毛利秀元隊が
何故かまったく参戦する気配なし。

それもそのはず
それより前線に陣取っていた
毛利重臣の吉川広家が
毛利領の本領安堵を条件に
参戦しない密約を戦前から
東軍の黒田長政と交わしており、
秀元隊どころか安国寺恵瓊隊まで
完全にブロックする始末。

仕方なく若年の宰相・秀元は
安国寺恵瓊からの参戦の催促にも
今、弁当食べてるからダメ!
(俗にいう「宰相殿の空弁当」)
と言い訳をせざる得ず・・・

これにより毛利本隊が後方から
襲ってくることがないと確信した
徳川家康本隊30,000の大軍は
満を持して前進を開始します。

その徳川本隊の動きを
松尾山から伺っていた小早川秀秋は
徳川3万の本隊が本格参戦すれば
どう転んでも西軍に勝ち目なし!
と、そこで初めて寝返りを決断し、

西軍の横っ腹、
特に善戦していた大谷吉継軍の
土手っ腹を急襲したことで、

同じく風見鶏に徹していた
小川祐忠、脇坂安治、赤座直保、
朽木元綱ら合計4,200の兵までも
東軍に寝返り、一気に形勢逆転。

東軍の大勝利に終わるわけデス。

なお、黒田長政や
板部岡江雪斎の調略にプラス
徳川本隊からの催促の発砲によって
秀秋は寝返ったと言われてますが、

ボクの秀秋に対する見立ては
それらはまったく関係なく、
冷静に戦況を見極めて
勝ち馬に乗ろうとしていた
狡賢い武将が秀秋本来の姿では
なかったかと想像しています。

関ケ原が終わってみれば
西軍の総大将・毛利輝元の
血縁関係にあったはずの
吉川と小早川の両川が裏切り
しかも吉川の密約は反故となり
毛利120万石は37万石に大幅減封。

輝元の祖父にあたる毛利元就が
説いた三本の矢「三子教訓状」は
まったく生かされることなく
崩壊してしまったわけデス。

そんな苦い経験もあってか、
毛利家の新年の会においては
こんな習わしがあったという噂も。

家臣が毛利藩主に伺いを立てます。

「今年は倒幕の機は如何に?」

そして、藩主はこう答えたそう。

「時期尚早!」

こんな徳川憎しの慣例があったとか。

つまり、長州藩による討幕の志は
関ケ原の戦いが終わった頃から
芽生えていたというわけですね。

「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ。」

by オットー・フォン・ビスマルク

歴史に学ばない国民は滅びる。

by 吉田 茂