開高 健とロバート・キャパ。

開高健 体験からの文学 ロバート・キャパ ちょっとピンボケ 輝ける闇

開高健の最高傑作「輝ける闇」、
その裏に隠された真実とは!?


先日の会津・新潟への旅の途中、

開高健と友人らとの対談や
開高健在りし日の思い出話が
一冊に詰まった冒頭画像左の
「開高健 体験からの文学」を
鈍行電車の中で読了しました。

何しろ青春18キップの旅故に
読書の時間はたっぷりあります。

で、その書の中で、
第二次世界大戦のD-デイこと
ノルマンディ上陸作戦の
戦闘を写したピンボケ写真で
一躍名を馳せることになった
元祖・戦場カメラマンこと
ロバート・キャパ

その著書「ちょっとピンボケ」を
なんと在りし日の開高健が、
大絶賛してるではないですか!

但し、カメラマンとしてではなく、
文筆家として褒め讃えてるんデス。

コレは一体どういうことか!?

ボクも不勉強だったんですが、
ちょっとピンボケ」と
名付けられたキャパの本は
実は写真集ではなく、
第二次世界大戦の戦場で
自らが体験したことを詳細に
書き残した自叙伝だったんデス。

例えばイタリア戦線で
九死に一生を得た時のことを
こんなふうに書いてます。

“ 私はぴったりと地面に腹をつけ、頭を大きな石の蔭によせ、両よこばらは私の両側の二人の兵隊に掩護される。砲弾の炸裂のたびに私は頭をもたげて、私の前方のぺちゃんこにされた兵隊と、爆発の淡く、立上る煙を写真にうつす。次第に、頭上には炸裂する砲弾が模様を描いて、私の隠れ家に近づいてくる。もう私は頭をもたげない。十ヤードばかりのところに、一つの砲弾が破裂し、何かが私の背中に当る。私はあまりの恐ろしさに背中を振り向いて見ることもできない。次の弾はもっと近くに落ちるかもしれない。恐る恐る、私は背中を手でさわって見る。血は流れていない、きっと爆発した砲弾が、私の背中に大きな岩石をふらせただけなのだろう。私の右の軍曹は弾の破片に当って、パープル・ハート勲章の名誉に相当するほど、右腕が切り裂かれている。私の左側の兵隊はもはや身動きもしない。彼は永遠にクリスマスの慰問袋を開くことはなくなってしまったのである。”

またノルマンディ上陸作戦では
こんなふうにも書かれています。

“ 潮が満ちてきて、海水は今や胸のポケットに収めた家族宛の手紙までも、ぬらしはじめていた。やっと突進する二人の蔭にかくれながら、佳岩塩たどりつくと、私は砂の上に打ち伏した。私の唇はフランスの大地にふれんばかりであったが、決してキッスしたい気持ちにはなれなかった。

・・・・・

気がついたときには、船のベッドの上にいた。私の裸の体には粗い毛布がかけてあって、首に下がっていたカードには、「失神、氏名不詳」と記されてあった。傍らのテーブルにカメラが置かれていたので、私は自分のこの状態に気がついた。隣のベッドにも、やはり裸の若い男がいて、天井をずっと見つめていた。首についてるカードには唯、「失神」とのみ書いてあった。この男は口を開くと、「私は臆病だった。」と言った。彼はこの上陸作戦の先発部隊に加わった十台の水陸両用戦車中で唯一人の生存者であった。タンクは荒れ狂う波の中に沈んでいった。そのとき、自分はなぜ陸地のほうに進めなかったのだろう、と呟いた。”

つまり、開高健は
キャパが死を覚悟しながら
戦場で撮影した写真ではなく、
死を見つめて書いたこれら文章に
心を奪われたというわけなんデス。

キャパが北ベトナムで地雷に
触れて亡くなったのが1954年、
本書が発刊されたのが1956年。

ボクの勝手な想像ですが、
ひょっとすると開高健は
キャパの原作を読んでいたが故に
1964年、ベトナム戦争に
自ら従軍記者として志願し、
赴いたのかもしれませんね。

そして、

開高健の傑作「輝ける闇」が
誕生する切欠になったのかなと。

以上、冒頭の三冊を読んで、
ロバート・キャパの写真展を
もう一度鑑賞したくなったことは
言うまでもありません。

PS.

ちょっと余談ですが、
1979年に発刊された
「ちょっとピンボケ」の
日本語訳版を開高健が
読んでいたことは
ほぼ間違いありません。

そして、

「ちょっとピンボケ」の
日本語翻訳者のうちの一人は
キャンティの創業者であり、
音楽プロデューサーだった
川添浩史氏デス。

戦前、ロバート・キャパが
パリに住んでいた頃からの
旧友だったそうで、
キャパが川添氏のアパートに
居候していたこともあったとか。