闇・軍人 山縣有朋。

山縣有朋

日本の闇を生んだ元勲。


終戦記念日が近づくにつれ、戦後80年を迎える太平洋戦争を取り上げた特別番組が数多く放送されている。

しかし、250年以上にわたる平和な江戸時代を経て、日本がなぜ突如として軍事国家へと変貌し、米国や中国と戦争するに至ったのか――その背景に迫った番組は少ない。

そんな疑問を抱き、ChatGPTとあれこれ意見を交わすうちに、ひとりの天才的軍人の姿が浮かび上がってきた。

近代日本陸軍の基礎を築いたとされる山縣有朋である。

彼が存在しなければ、太平洋戦争どころか、日清戦争すら起こらなかった――そう評される人物だ。

では、山縣が主導した、日本の軍国主義化への布石を追ってみよう。

徴兵令の制定(1873年)
 → 国民皆兵体制を確立し、常備軍を国家の中枢に据える。

軍人勅諭の制定(1882年)
 → 表向きは軍の非政治化と規律強化だが、実際には天皇直隷を盾に軍部の独立と権限強化を狙った制度的布石。

統帥権の独立(1889年)
 → 大日本帝国憲法第11条に盛り込み、軍の指揮権を天皇直属とし、内閣や国会の干渉を排除。

国防線の設定(1890年)
 → 大陸進出、つまりは朝鮮半島への進出を正当化し、のちの主権線・利益線の概念に繋がっていく。

日清戦争開戦を主導(1894年)
 → 朝鮮での東学党の乱平定後、清国と対立。伊藤博文は戦力差のある清国との妥協を模索するも、山縣は片腕であった川上操六(参謀次長)や陸奥宗光(外相)を味方につけ、参謀総長として開戦を強行。
  この勝てるはずがないといわれた日清戦争の勝利が、幸か不幸か日本国民を右寄りに変えてしまった。
  そして、戦争は金儲けの手段となった。

軍部大臣現役武官制の導入(1900年)
 → 陸海軍大臣を現役軍人に限定し、軍部が内閣を事実上支配できる体制を首相として法制化。

日露戦争開戦を強行(1904年)
 → 当初は非戦論派だったが、シベリア鉄道開通の前にやるべきと、子飼いの桂太郎首相とともに開戦派として強硬するに至る。

日露戦争講和会議で強硬意見(1905年)
 → 山縣は「勝った以上は徹底的に賠償を取れ」という強硬論を主張。しかし、南樺太割譲などで妥結したことから「腰抜け外交」と非難。
  同時に国民の失望も爆発し、日比谷焼打事件へとつながった。

関東軍司令官の権限強化(1919年)
 → 関東軍司令官には、陸軍参謀総長と並ぶ天皇直属の強大な統帥権が与えられた。その結果、本国の軍部による統制が及ばなくなり、満州事変をはじめとする関東軍の独走を招く要因となった。

軍国主義者の育成
 → 寺内正毅、桂太郎、田中義一ら筋金入りの軍国主義者を育て、その系譜は石原莞爾、東條英機ら昭和の軍人へと連なっていく。

これらの結果、シビリアンコントロール(文民統制)は形骸化し、昭和の時代を迎え軍部、特に関東軍はさらに坂道を転がるように暴走を始め、止めようとする者は一人残らず抹殺された。

天才的軍人・山縣有朋――ただ一つの誤算は、その暴走を止める仕組みを残さなかったことかもしれない。

太平洋戦争の敗戦を、草葉の陰で山縣はどう思っただろうか。

 

□□□ 東雲乃呟 □□□□□□□□□□

昨日のドジャースは
なんとかギリギリ勝てたけど
剛腕メイソン・ミラーを
パドレスに取られたことはホント痛かった。