『流星光底長蛇を逸す』の川中島古戦場。

風林火山 vs 毘沙門天


2018.07.29(日)10:00~

JR長野駅前のバス3番のりばから30系統・古戦場経由松代行松代行きの路線バスに揺られて約20分、到着したのがココ「川中島古戦場」。

甲斐の武田信玄と越後の虎こと上杉謙信が1553年~1564年までの約10年間、つごう5回にわたって雌雄を争った合戦場所であることは高校時代の日本史で習った通りデス。

※路線バス時刻表はコチラ

川中島大合戦図。

1561年9月10日、千曲川と犀川に挟まれた地にある川中島の合戦史上、最も激戦になったと言われるのは4度目の戦い。

もともと海津城を本拠地としていた武田軍は2万の兵のうち1万2千の兵を使って妻女山に陣取っていた1万3千の上杉軍を奇襲し、虚を突かれて慌てて山を下りるはずの上杉軍を武田軍残りの8千の兵が待ち伏せして挟み撃ちにするという啄木鳥戦法を計画していました。

しかしながら、上杉軍はその啄木鳥戦法を事前に察知し、頼山陽の題不識庵撃機山図「鞭声粛々夜河を渡る」の詩の通り上杉軍1万3千の兵は先手を打って深夜に千曲川をこっそり渡り、平野部にて鶴翼の陣を敷いて待ち構えていた武田軍8千の兵を逆に奇襲したそうデス。してやったりの上杉謙信ですネ。

但し、前半は車懸りで攻めた上杉軍が信玄の弟・武田信繁や軍師・山本勘助を討ち取るなど有利に戦いを進めたものの、後半は妻女山に向かっていた1万2千の武田軍が合流したことで武田軍優勢に戦況が変わります。

それに耐え兼ねた上杉軍は犀川を渡って善光寺まで敗走、越後に引き上げたことで、結果的にこの北信濃の地は武田の支配下となったそうデス。

合戦終了後、武田信玄が首実検を行い、勝鬨を上げたとされる八幡神社。

境内には4度目の合戦でつとに知られた逸話「三太刀七太刀」の銅像がありますヨ。

左:武田信玄公 
右:上杉謙信公

武田氏の戦略・戦術が書かれた軍学書「甲陽軍鑑」によると、両軍乱れての大混戦の中、手薄となっていた武田信玄の本陣に、白頭巾を被り名刀・小豆長光を振り上げた騎馬武者が突如現れ、床几に腰をかけていた信玄に馬上から三太刀斬りつけたそうデス。

※「甲陽軍鑑」は武田四天王の一人と数えられた高坂弾正(春日虎綱)が口述した武田氏の戦略・戦術を大蔵彦十郎と春日惣次郎のふたりに筆記させ、原本を入手した小幡景憲(武田家臣小幡昌盛の三男)が広めたとされる軍学書のこと。つい最近までは江戸時代に書かれた偽書とされていたが、国語学者 酒井憲二氏の研究によって室町時代の言葉が使用されている甲陽軍鑑の古書が見つかったこと、また「甲陽軍鑑末書」が発見され、その中に高坂弾正が語った言葉を書き写したものであるとの記述が見つかったことから、「甲陽軍鑑」が一次資料なりえる可能性が俄かに高まってきている。

対して、信玄は手にした軍配団扇でその太刀を受け防戦。

すぐさま駆けつけた旗本の槍が白頭巾の騎馬武者の肩の鎧に刺さり、騎馬武者はそれを太刀で叩き落とそうとしたものの、謝って自分の馬の尻を叩いてしまいます。そのため馬が驚いてその場から駆け出してしまったことで、信玄は九死に一生を得たそうデス。

そして、この白頭巾を被った騎馬武者こそが、実は上杉謙信であったと言うわけですネ。頼山陽の詩『不識庵の機山を撃つの図に題す』に、この一騎打ちの場面を「遺恨なり十年一剣を磨き、流星光底長蛇を逸す(十年の苦心もむなしく、撃ち損なってしまった)」と詠じています。

因みに信玄の軍配団扇にはその時の太刀の傷が7つ残っていたそうで、それが故に「三太刀七太刀」の逸話となったようデス。

因みに川中島古戦場とされいる地は現在は八幡原史跡公園として整備されており、敷地内には長野市立博物館もありましたヨ。

残念ながら時間なく見学できませんでしたが(汗)

公園内には松代藩の地ということもあり、佐久間象山先生の銅像も。

 

 

□□□ 東雲乃呟 □□□□□□□□□□

この激しい合戦の後、武田方の海津城主であった高坂弾正は、敵味方関係なく6千余の戦死者を手厚く葬ったそうなんですが、その塚のひとつがこの首塚。

ことの次第を知った上杉謙信は大変感激し、後に武田信玄が駿河の今川家と対立したことで、甲斐の国が塩不足に苦しむのですがその際、「われ信玄と戦うもそれは弓矢であり、魚塩にあらず」と直ちに謙信は甲斐の国に塩を送り、この恩に報いたとされています。

そして、この逸話が乱世に咲いた美学と褒めたたえられ、「敵に塩を送る」という故事が生まれたとされています。素敵!