2019 京都の旅 vol.07 京都御所Ⅱ。

京都御所は意匠の宝庫だった。


そして、歴史の宝庫でもあった。

さてと、vol.07の京都御所の続きデス。

後半となるvol.08では、幕末の歴史もたっぷりとご紹介。

ぜひ一言一句漏らさずにお読みくださいませ(笑)

建春門。

建春門と言えばもちろん建春門院こと平茲子ですね。高倉天皇の母であり、後白河法皇の女御であられました。そして、茲子の異母姉が平清盛の正室であった平時子でした。

春興殿。

大正天皇の即位の礼に合わせて大正4年(1915年)に造営されたそうで、式の際、三種の神器の一つ「御鏡」を東京の皇居から一時的に移して奉安し、賢所大前の儀を行った建物にあたります。

因みに母方の曾爺ちゃんは大正天皇の近衛兵であったため、当時の即位の礼に出動していたものと予想されます。

御学問所。

もともとは1612年徳川家康により内裏が造営された際、天皇が学問に専念するようにと新しく新設された建物なんですが、侮るなかれ。

1867年12月9日「王政復古の大号令」が発せられた場所が、実はこの御学問所なんデス。

薩摩・土佐・安芸・尾張・越前の5藩の兵が御所9門を固め、摂政二条斉敬をはじめとする親幕府的な公卿の御所への立ち入りを禁止した後、明治天皇臨御の下、此処御所内学問所において「王政復古の大号令」が発せられました。

因みに号令された内容は以下の通り。

1.徳川慶喜の将軍職辞職を勅許。
2.京都守護職・京都所司代の廃止。
3.幕府の廃止。
4.摂政・関白の廃止。
5.新たに総裁・議定・参与の三職をおく。

まさか家康も自分の作った御学問所で幕府が滅びるとは夢にまで思わなかったはず(苦笑)

小御所。

そして、「王政復古の大号令」が発せられた日の夜、総裁・議定・参与の三職による最初の国政会議が此処小御所にて開催されたことから「小御所会議」と呼ばれます。

小御所会議では一時、山内容堂らの主導により徳川慶喜に対する寛容な処置に意見が傾きつつあったようですが、岩倉具視や西郷隆盛、大久保利通ら武闘派が恐喝まがいな手口で巻き返し、松平春嶽・徳川慶勝の二人が慶喜へ辞官納地の決定を伝え、慶喜が自発的にこれを申し入れるという形式をとることが決定された。結局この後も慶喜の抵抗に合いひと悶着あるわけですが。。。

因みに土佐藩主・山内容堂が「この会議に今までの功績がある徳川慶喜を出席させず、意見を述べる機会を与えないのは陰険である。数人の公家が幼い天皇を擁して権力を盗もうとしているだけだ」と論陣を張った際、岩倉具視が「帝は不世出の英主であり、今日のことはすべて天皇のご決断である。無礼者!!それを幼い天皇とは妄言である。」と論駁し、容堂が失言を謝罪したという逸話が残されてます。

まだ15歳だった明治天皇の御前会議でもあったことから、秀吉が三法師を擁して争った清須会議の再来みたいな感じがしないでもありあません。

続いては・・・蹴鞠の庭。

小御所と御学問所の間にあります。

そして、蹴鞠の庭の前にある御池庭。

さすが御所だけあって、回遊式池泉庭園も抜かりありません。

御常御殿。

1589年に豊臣秀吉が紫宸殿の修築と同時に造営した京都御所の中で最も大きな書院造の御殿デス。

それ以降、清涼殿に代わって東京に遷都するまでの300年間ほど天皇の日常のお住まいとして使用されていたそうデス。

もちろん御常御殿にも狩野永岳や鶴沢探真はじめ絢爛豪華な襖絵や板戸絵ありデス。

御常御殿前の御内庭。

最後に西側から見た御常御殿の屋根。

入母屋桧皮葺の屋根にはよくよく見ると豪華な意匠も施されてます。

さて、不思議なことに京都御所を含めた京都御苑にはお堀が一切見られません。

生前の高松宮宣仁親王殿下が同妃喜久子殿下にこんなことを語っていたそうデス。

「皇族というのは国民に護ってもらっているんだから、過剰な警備なんかいらない。堀をめぐらして城壁を構えて、大々的に警護しなければならないような皇室なら、何百年も前に滅んでいるよ。」(『文藝春秋』平成十年八月号)。

そもそも古来天皇家は北面の武士や滝口の武士など、今でいうシークレットサービスレベルの最低限の警護しかついておらず、特定の軍隊を一切持たずに126代千年以上に渡る歴史の系図を守ってこられました。

建武の新政で知られる後醍醐天皇なんかは御所より逃げ出しちゃったことありましたけど、天皇の戦わない姿勢や覚悟こそが究極の無手勝流だったのかもしれません。

以上、京都御所にはこれからも何度でもお邪魔したいと思います。

 

□□□ 東雲乃呟 □□□□□□□□□□

44歳とは思えない美貌。