いよいよ本旅もオーラスに。
嵯峨嵐山文華館の企画展で
松尾芭蕉の生い立ちに浸ったあと
最後に鑑賞したのが百人一首の常設展示室。
そもそも嵯峨嵐山文華館は
藤原定家が百人一首を選定した
山荘のある小倉山の麓にあり
百人一首のために作られた美術館
と、言っても過言ではないだろう。
因みに藤原定家の山荘は
二尊院や常寂光寺に跡地が残っているが
正確な場所は分かっていない。
残念ながら当日は
百人一首にまつわる展示が
ほとんどなかったんだけど
冒頭画像にもあるフィギュアの展示
コレが圧巻だったんで大満足だ。
以下、その一部をご覧アレ。
秋の田の 仮庵の庵の 苫をあらみ わが衣手は 露にぬれつつ
天智天皇
春過ぎて夏来にけらし白妙の 衣ほすてふ天の香具山
持統天皇
天の原 ふりさけ見れば 春日なる三笠の山に 出でし月かも
安倍仲麿
花の色は うつりにけりな いたづらにわが身世にふる ながめせしまに
小野小町
月見れば ちぢにものこそ 悲しけれ わが身ひとつの 秋にはあらねど
大江千里
このたびは 幣も取りあへず 手向山 紅葉のにしき 神のまにまに
菅家
菅原道真公だね。
小倉山 峰のもみぢ葉 心あらば 今ひとたびの みゆき待たなむ
貞信公
藤原忠平(880~949年)
夏の夜は まだよひながら 明けぬるを 雲のいづこに 月やどるらむ
清原深養父
清少納言のお爺ちゃん
忘らるる 身をば思はず 誓ひてし 人の命の 惜しくもあるかな
右近
契りきな かたみに袖をしぼりつつ 末の松山 波こさじとは
清原元輔
清少納言のお父ちゃん
あはれとも いふべき人は 思ほえで 身のいたづらに なりぬべきかな
謙徳公
藤原伊尹 / ふじわらのこれただ(924~972)
明けぬれば 暮るるものとは 知りながら なほ恨めしき あさぼらけかな
藤原道信朝臣
歎きつつ ひとりぬる夜の 明くる間は いかに久しき ものとかは知る
右大将道綱母
忘れじの行末までは難ければ 今日をかぎりの命ともがな
儀同三司母
滝の音は 絶えて久しく なりぬれど 名こそ流れて なほ聞えけれ
大納言公任
あらざらむ この世のほかの 思ひ出に 今ひとたびの 逢ふこともがな
和泉式部
巡りあひて 見しやそれとも わかぬ間に 雲がくれにし 夜半の月かな
紫式部
有馬山 猪名のささ原 風吹けば いでそよ人を 忘れやはする
大弐三位
紫式部の娘だね。
やすらはで 寝なましものを 小夜更けて 傾くまでの 月を見しかな
赤染衛門
大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみも 見ず天の橋立
小式部内侍
和泉式部の娘だね。
いにしへの 奈良の都の 八重桜 今日九重に 匂ひぬるかな
伊勢大輔
夜をこめて 鳥のそら音は はかるとも 世に逢坂の 関はゆるさじ
清少納言
心にも あらでうき世に ながらへば 恋しかるべき 夜半の月かな
三条院
ながからむ 心も知らず 黒髪の 乱れて今朝は ものをこそ思へ
待賢門院堀河
世の中は 常にもがもな 渚こぐ あまの小舟の 綱手かなしも
鎌倉右大臣
人も惜し 人も恨めし あぢきなく 世を思ふゆゑに もの思ふ身は
後鳥羽院
イメージは如何だったかな?
そんなわけで、2024 大阪・京都の旅 了。
□□□ 東雲乃呟 □□□□□□□
おもろすぎ(笑)