絶体絶命・NHKスペシャル「原発メルトダウン 危機の88時間」

福島第一原子力発電所事故 fukushima

5年前の福島第一原子力発電所で
こんな壮絶なドラマがあったとは。


2011年3月11日14時46分、あの東日本大震災が発端となった福島第一原子力発電所事故、当時は東北を襲った津波の映像があまりにも衝撃的過ぎて、不覚にも原発事故のほうは個人的に危機感が薄く、福島第一原発の建屋を遠くから映すカメラと同じように遠い目で事故のテレビ報道や検証番組を見ていたような気がします。

しかし、福島第一原発事故関係者500人以上から集められたという証言をもとに再検証がなされ、地震発生直後から1号機格納容器破壊の危機収束までの壮絶な葛藤を再現したNHKスペシャル「原発メルトダウン 危機の88時間」を見るに、5年後にして初めてあの事故の真実を知って目が覚めた思いです。

まさか東日本全域が全滅してもおかしくないほどの危機に直面していたとは。。。。。

そして、現場にいた原発関係者たちがその死をも覚悟したと言われる最大の危機であった2号機メルトダウン⇒格納容器破壊危機収束の謎は現在も解き明かされていません。まさに神風が吹いたとしか思えない奇跡的な現象が起きていたのかもしれませんね。

今回NHKが再検証した88時間に渡る危機の連続に一体福島第一原発の関係者たちはどう対処したのか、既に再放送も終了したようですので、以下ドラマの内容の経過をほぼすべて書き出しましたので、その壮絶な闘いの軌跡を描いたドラマをご一読下さい。

1.ブラックアウト

3月11日14時46分、宮城県牡鹿半島の東南東沖130km、仙台市の東方沖70kmの太平洋の海底を震源とする東北地方太平洋沖地震が発生。地震発生から1時間も経たないうちに、海岸線に6つの原子炉を構え、当時1号機、2号機、3号機の3つの原子炉が稼働していた福島第一原子力発電所を高さ10mを超える巨大な津波が襲いかかりました。その巨大津波は建物の地下にあった非常用バッテリーや電源盤までも水没させ、福島第一原子力発電所は瞬く間に全交流電源を喪失する「ブラックアウト」と呼ばれる危機的状態に陥ってしまいます。

2.1号機メルトダウン

まず1号機において「イソコン」と呼ばれる自動起動の冷却装置をON/OFF交互に切り替えていた最中、OFFになっていた状態で、ブラックアウトしてしまうという不運に見舞われ、原子炉圧力容器内の燃料棒がみるみるうちに高温化、圧力容器内の水位が蒸発によって大幅に低下してしまいます。この時点での政府の発表では、まだ原子炉に問題はないとのことでしたが、実は地震発生から5時間あまりの19:39には早くも1号機はメルトダウンしてしまっていたのです。故にその結果、その日の深夜に1号機の格納容器内が限度圧力をオーバーしていることが判明、いきなり炉心損傷という大きな危機を迎えてしまいます。

3.命懸けの1号機ベント

その為、多少の放射性物質の屋外放出を覚悟しなければならない格納容器内の圧力を抜く「ベント」の実施が決定されるのですが、ベントを開始するには自治体を通して近隣住民に避難を求める必要があるなど、それなりの時間を要してしまいます。そんな中、ベント決定から数時間経っても一向に実行される気配も状況説明もないことから、業を煮やした菅首相が12日早朝に自衛隊のヘリで福島第一へ駆けつけ、ベントの早期実行を直接吉田所長に迫るという一幕もあったりしました。そして、ようやく準備が整い、3月12日9時00分にベント開始の指示がかけられます。しかし、ベントには損傷寸前の格納容器近くにある2カ所のバルブを手動で開ける必要があり、2班に分かれて計4名の決死隊が高線量の建屋の中、命懸けの作業に向かうのですが、その道中だけで被爆ギリギリの線量を浴びてしまい、作戦は敢え無く失敗に終わります。その為、屋外からの遠隔操作などいろいろと試行錯誤されることになるのですが、結果、ひとりのベテラン作業員が10分ほどの作業で人間が1年間に浴びても良いとされる放射線量の100倍以上に相当する106.3ミリシーベルトの高線量を浴び、後に体調不良を起こし病院に運ばれながらも、ベント開放をやり遂げてくれます。その殊勲のおかげで、寸でのところで格納容器の圧力が低下、14時30分にベントが成功したと判断され、とりあえず1号機炉心損傷と言う危機はひとまず回避されることになったのデス。

4.1号機水素爆発

しかし、それも束の間、その1時間後の15時36分、その1号機建屋がまさかの水素爆発。格納容器の圧力は低下したものの格納容器から漏れたと思われる大量の水素ガスになんらかの火が引火して、1号機建屋の5階部分より上が粉々に吹っ飛んでしまいます。現場では格納容器の破壊なのか、水蒸気爆発なのか、水素爆発なのか、なんの爆発か分からずに大混乱。外にいた作業員は辛うじて無事だったものの午前中に到着した電源車に繋いだケーブルが損傷、電源復旧作業も一からやり直しとなる不運に見舞われます。この爆発を目の当たりにして、もはや自分たちは生きて帰れないかもしれない、そんな最悪の事態がスタッフたちの頭を過ったそうデス。

5.1号機海水注入

3月12日20時20分、炉心が再利用できなくなるという理由から東京電力本店より難色を示されていた海水注入を開始。これによって1号機の炉心損傷の危機はなんとか乗り越えられたのでした。

6.3号機メルトダウン

そんな1号機の混乱の続く中、翌日深夜3月13日2時44分、今度は3号機に異常が発生します。辛うじて動いていた3号機の冷却装置がついに停止してしまったのです。万策尽きた吉田所長が編み出した苦肉の策は、マニュアルにもない消防車の放水機能を利用した海水の注水冷却でした。しかも放水に使うためのバッテリーの運搬が滞っていた為、敷地内にあった車のバッテリーをかき集めての作業です。その甲斐あってなんとか3号機への注水が行われます。しかし、うまく成功したと思っていたその5時間後、今度は3号機建屋内が高線量に見舞われます。3号機格納容器からまたしてもなんらかのガスが漏れていたのです。1号機と同様の水素爆発が起きる可能性も否定できないため、すぐさま電源復旧作業及び注水作業などの屋外作業は中止し、作業員には避難指示が発せられます。後から判明するのですが、複雑に組まれた配管のポンプの隙間から水が漏れ出して、原子炉まで半分以下の注水しか到達できていなかったのがその原因だったようです。その為、1号機同様に3号機でもメルトダウンを起こしていたのでした。

7.3号機水素爆発

原因がよく分からないまま作業が中止されるも、このまま放っておいては、今度は3号機の炉心損傷が懸念された為、翌朝、ついに中断していた外での作業を再開させます。がしかし、3月14日11時01分、1号機を遥かに超える大規模な水素爆発が3号機建屋を襲います。全員命には別状はなかったものの、一時期40名もの作業員が行方不明になるほどの大爆発でした。但し、3号機も水素爆発の前になんとかベントは成功させていた為、幸いにも炉心損傷という危機は辛うじて乗り越えられるのでした。

8.2号機メルトダウン

その頃、手付かずとなっていた2号機はブラックアウト寸前に電気がなくても起動できる冷却装置が幸いにも起動されていたことから3日間何事もなく圧力容器内を冷却できていました。がしかし、3月14日13時25分、ついにその冷却機能も失われ、対策の必要性に迫られます。しかも2号機は、3日間冷却されていたものの、19時45分、圧力容器内の冷却水が突如大幅に減少し、19時45分、燃料棒がすべて露出した状態となってしまったのです。原因はこともあろうか消防車ポンプのバッテリー切れで、注水が停止していたからです。屋外は線量が高く、消防車ポンプのバッテリーを定期的に見回ることが出来なかったからと言います。その原因が判明次第、慌てて注水を再開し、なんとか水位は回復するも、21時09分、2号機までもがついにメルトダウン。

9.掟破りのドライウェルベント

さらに不幸は重なり隣りの3号機が水素爆発した際に2号機ベント用のバルブに不具合が生じてしまったことで圧力抑制プールを通したウェットベントが出来なくなったのです。その為、メルトダウンしてしまった2号機は、23時39分、格納容器の圧力が異常上昇し、もう残された手立ては禁じ手とも言える「ドライウェルベント(ドライベント)」しかありませんでした。このドライウェルベントとは、格納容器内の放射性物質を圧力抑制プールで濾過させることなく、空気中に直接高濃度の放射性物質を放出するという禁じ手とも言える手段だったわけですが、もはや背に腹はかえられず、切羽詰った東京電力本店から吉田所長に一分一秒でも早いドライベント催促の怒号が飛びかいます。なんとしてでも格納容器損傷だけは防がなければなりません。

10.悪夢のサプチャン0

3月15日00時00分、最終手段でもあり、禁じ手でもあっただったはずのドライベントを決行するも2号機の格納容器内の圧力低下は結局見られず、3時00分、格納容器圧力が設計圧力をついに超えてしまいます。さらに地震から88時間後の6時10分、何かしらの爆発音が耳に飛び込んでくると、今度は2号機の格納容器内の圧力が低下。ついに「サプチャン0」という最悪の事態が訪れます。「サプチャン0」とは原子炉格納容器が破壊されたことで、格納容器内の圧力がゼロになってしまうこと、つまりは格納容器内の放射性物質が空気中にばらまかれ、もはや東日本に人間は住めなくなるという万事休すの最も恐れていた事態のことです。吉田所長は後にこの時の事態をこんなふうに語っています。

「我々のイメージは東日本壊滅ですよ。」

この結果、後に「フクシマ50」と呼ばれる50人の職人だけを現地に残して、750人の職員が退避することになったです。

福島第一原子力発電所事故 Fukushima_I_by_Digital_Globe_B

※左から4号機、3号機、2号機、1号機

2号機だけが建屋爆発を逃れていますが、これは1号機もしくは3号機建屋が爆発した際に2号機の建屋に水素が抜ける小窓が開いた為と言われています。四角い窓が開いていて、そこから白い煙が出ていますが、まさにその小窓のことです。

11.神風吹く

ところが、その何かしらの爆発音というのは、実は2号機の格納容器が損傷して起きた爆発音ではなく、3号機の水素ガスが4号機建屋の中に流れこんでしまったがために4号機の建屋上部が爆発して発生した音だったのです。そして、2号機の原子炉格納容器は破壊されることなく奇跡的に圧力が低下しサプチャン0の状態になったというのです。サプチャン0になった原因は未だ解明されておらず、2号機の格納容器にわずかな損傷が偶発的に発生し、上部のつなぎ目などから少しずつガスが抜け出したことで圧力が低下したのではないかとも仮説が立てられていますが、裏を返せば、ある種の神がかり的な何かが起こったのではないかとも噂されるほど奇跡的な現象だったのです。まさに吉田所長をはじめとする福島第一原発事故に携わった方々の想いが2号機に神風を吹がせたことで、東日本の壊滅が免れたのではないでしょうか。もはや感謝の念しか思い浮かびません。有難うございました。なお、今回事故にあった稼働中の3つの原子炉が無事冷温停止状態まで落ち着いたのは結局9か月後のことだったそうです。

で、同番組を見ての感想ですが、耐震性能に万全を期した構造に変えられるまで、日本の原発はすべて停止したほうが宜しいかと。万が一原発のあるエリアに直下型巨大地震が発生したとき、ここまで繊細な構造物じゃとても耐えられません。せめて、被害の少なかった福島第二原発と同様に非常用バッテリーや電源基盤を気密性の高い原子炉建屋の中に移設するか、津波被害の恐れのない高台など安全な場所に移設するなどの対策は必須と思われます。5年に一度の頻度で起こる大地震大国日本、福一でチェルノブイリ同様に原子炉格納容器が破壊されたと想定すると、半径250kmエリアが避難地域となり、東京はもちろんのこと横浜までもが避難地域になってしまうのです。ま、10年もすれば忘れられることは確実ですが(苦笑)

因みに2号機のメルトダウンが発生した時に東電の清水社長は海江田経産大臣に福島第一からの撤退を電話でお願いするほど事態は切迫していたそうデス。その経緯に関しては当時総理補佐官だった寺田学氏のコチラのレポートをご参照下さい。想像を絶する菅首相をはじめとする政府官邸の面々、東電の首脳、福一の吉田所長のやり取りを垣間見ることができます。