説・マルタとマリア。

 マルタとマリアの家のキリスト

マルタとマリアの家のキリスト


平野啓一郎著書の恋愛小説「マチネの終わりに」の終盤に、解釈について今でも異論反論が出るという新約聖書の説教「マルタとマリア」についての会話があった。

調べてみると冒頭画像のディエゴ・ベラスケスの「マルタとマリアの家のキリスト(1618)」にも描かれたこの新約聖書「ルカによる福音書」第10章に登場する「マルタとマリア」の説教がとっても奥の深い考えさせられる内容だったんで、Xmasの今日はそれを主題に考察してみたいと思う。

以下、その「マルタとマリア」の説教の翻訳だ。

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キリストは旅の途中、マルタとマリアという名の姉妹の家に訪れた。

マルタはキリストをもてなすために忙しなく働き、一方のマリアはキリストの足元に座りずっとキリストの話を聴いていた。

マルタはこのマリアの様子に腹を立て、「マリアは私にだけもてなしをさせている。手伝ってくれるよう仰ってください。」とキリストに直に訴えた。

ところがこれを聞いたキリストはこう返したという。

「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」

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いろいろ調べてみたところ、この説教の解釈は一般的にこのようなものだった。

◆ 奉仕 < 礼拝(拝聴)

キリストの考える信仰の絶対的プライオリティは、マルタが行った神への奉仕の精神ではなく、マリアが行った神への礼拝(拝聴)の精神に置かれていた。

神への奉仕の精神も大事かもしれない。でも、キリストが目の前にいるこの場ではなにより神の教えを直接聴くことがもっとも尊重されるのだ。そのためキリストは「必要なことはただ一つである。マリアは良いほうを選んだ。」とマルタの意見を否定したのだと。

先日のW杯含めよく海外のスタジアムで日本人観戦者がゴミ掃除して帰ることに対して、スポーツ観戦のせっかくの余韻が薄れる行為だ、日本人はレストランへ行って下膳までするのか?と批判的に考える外国人も少なくないが、この説教のような認識があるのかもしれない。

 

がしかし、のちにこの教義の解釈に教会などで奉仕する信者から反論が出た。それでは神の見えないところで奉仕する人たちが浮かばれないと。神なら等しく尊重していたはずだなどと異論が噴出したのだ。

そこで、ボクはこんなふうに解釈すればいいのではないかと思った。

◆ 奉仕 = 礼拝(拝聴)

そもそも食事を作る、掃除をするなどといった奉仕なくしてキリストも人も生きていけない。神なら奉仕する人たちの善行も当然見通していたはずだし、奉仕する精神も礼拝する精神もどちらも等しく尊重していたはずだ。奉仕をするマルタに対して説教を聴くようキリストが注意しなかったものそのためだ。

それ故にこの説教の真理は、礼拝の精神を尊ぼうとするマリアに奉仕の精神を無理に押し付けようとしたマルタの独りよがりな行為に対してキリストは戒めようとしたたのではないかと。信仰の精神は人それぞれの胸の内にあるべきだとキリストは諭したかったのではないかとボクは理解した。でなければ、奉仕の精神に重きを置いた信者があまりにも浮かばれないからだ。

ま 、 違 う な ( 苦 笑 )

とは言え、スタジアムでゴミを残していく人、ゴミを片付けて帰る人しかり。スポーツ観戦の流儀やモラルは人それぞれであり、ルールが決まっていない以上、どちらかが批判されたり、妬まれたりすべきではない。掃除の生業を持った人たちの仕事を奪う行為だという者がいるが、ゴミを片付けるのと清掃業はまったく別モノであるとボクは認識している。

なお、長い目で見れば黙々と奉仕をする人が「信頼」という価値を得やすいことは間違いないと思うのだが如何だろうか?

 

因みに「マチネの終わりに」では、主人公・蒔野聡史を騙し奪われた小峰洋子が神への礼拝こそが信仰の唯一の道であると考え、対して蒔野を奪い取った三谷早苗は礼拝よりも奉仕の精神こそが優先されるべきと考えていた。

さて、あなたはどう解釈する?

 

□□□ 東雲乃呟 □□□□□□□

ワニってこんなジャンプ力あるんだ!?汗