板垣死すとも自由は死せず。

Itagaki_Taisuke 板垣退助 岐阜事件 板垣死すとも自由は死せず

1882年4月6日、岐阜事件。


先週末にお邪魔した
岐阜城聳える金華山の麓で
どっかで見た覚えのある
風格ある髭面の銅像を発見。

おぉ!なんと!

明治元年1868年の
会津戦争をきっかけとして
日本の民主主義に目覚めた
自由民権運動の父とも
元祖とも言われる
板垣退助ではありませんか!

Itagaki_Taisuke 板垣退助 岐阜事件 板垣死すとも自由は死せず

今年3月の会津レポート
ご紹介したばかりですよね。

で、その板垣退助が
今から135年前の今日
1882年(明治15年)4月6日、
時刻は午後6時半ごろ、

神道中教院での演説後、
岐阜市のまさにこの地で、
相原尚褧なる暴漢に襲われ、
7カ所の傷を負いながらも、

「板垣死すとも自由は死せず」

と、叫んだことから
つとに知られるようになった
史実に伝わる名文句デス。

但し、実際には
板垣退助の同志であり、
事件の場にもいた
内藤魯一が事件後に
語った言葉だそうですが。

なお、板垣退助は
当時は医者でありながら、
後の内務・外務大臣となる
後藤新平に手当を受け、
一命をとりとめたことで、
82歳まで長生きをします。

また、暗殺犯であった
相原尚褧は保釈後、
板垣の元に謝罪に訪れ、
板垣はこれを許したそうデス。

偶然とはいえ、
今回の件、板垣退助に
親近感を覚える出来事として
脳裏に深く刻み込まれたことは
言うまでもありません。