「英国王のスピーチ」と「王冠を賭けた恋」。

the_kings_speech 英国王のスピーチ

王様だって人間なのさ。


さて、昨日は天皇陛下が
生前退位の意向を公表された、
との重大ニュースが速報されたが、

先日、偶然にも
第ニ次世界大戦開戦直前、
大英帝国の王室内で
実際に起こった譲位の実話を
隠すことなく映像化した映画作品
「英国王のスピーチ」を鑑賞した。

日本の皇室では到底考えられない
自由奔放な英国王室だからこそ
許された逸話であろうか。

以下、簡単にあらすじを記すので
お時間あればどうぞお読み頂きたい。

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日本で226事件が起きた
同じ年の1936年のこと、

英国王ジョージ5世が亡くなり、
その後を継いで王位についた
後のウィンザー公爵こと
エドワード8世が、

…私は国王として
重大な責任と義務を果たすことが
到底不可能である。
愛する女性の助けと支えなしでは…

この不可解な退位文書を
BBC放送を通じて読み上げ、
戴冠後、1年にも満たない
わずか325日で
突如王位を退位することになる。

そして、その退位した
エドワード8世の代わりに
急遽王位を押し付けられたのが
その弟・ジョージ6世だった。

しかし、

そのジョージ6世は幼い頃から
ずっと吃音症に悩まされ、
とても大英帝国の威厳を
保つことができる存在ではなかった。

まだ若干29歳の時、
ウェンブリー競技場で開催された
大英帝国博覧会の閉会式で
英国王室を代表して
閉幕スピーチを担当したものの
どもり過ぎてスピーチにならず、
聴衆も苦笑するしかなかったほどだ。

そんなふうであったため
妻・エリザベスは
幾人もの吃音症の有名専門医に
治療を依頼するのだが、
誰一人として吃音症を
改善されることはできなかった。

そこで、妻・エリザベスは
医師免許をもたない
オーストラリア出身の
言語療法士ライオネル・ローグに
わらにもすがる思いで、
治療を依頼する。

果たして
ジョージ6世の
吃音症は無事克服され、
戴冠式での宣誓は滞りなく
終えることができるだろうか。

また、1939年9月、
第二次世界大戦の開戦を告げる
対独宣戦布告の為のラジオ演説を
行わなければならなくなったのだが、
ジョージ6世の演説は
英国国民を鼓舞出来るだろうか。

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さて、

この作品を語るには
冒頭で述べた
わずか325日で退位した
エドワード8世こと
後のウィンザー公爵のことを
語らずにはいられない。

何故なら
ダイアナ妃と離婚し、
カミラ夫人と再婚した
プリンス・オブ・ウェールズこと
チャールズ皇太子
大きな影響を与えた存在が
このウィンザー公爵であると
個人的に思っているからだ。

※チャールズ皇太子と
カミラ夫人との恋の顛末は、
コチラを参照のこと。

ウィンザー公は
若き時よりヨーロッパ屈指の
プレイボーイとして名を馳せ、

その恋愛遍歴は
枚挙に暇がないほどで、
テルマ・ファーネスと
その双子の妹グロリアによる
「ダブル・エクスポージャー」なる
ふたりの回顧録の中にも
ウィンザー公とテルマの
赤裸々な情事が綴られているほどだ。

そんなウィンザー公であったが、
王位を継承する5年ほど前から
アメリカ人の既婚女性ウォリス・
シンプソンとの真剣交際を始める。

そもそもウィンザー公は
母親メアリーからの愛情に
恵まれなかった為か、
母性本能溢れる人妻の女性に
溺れやすい傾向にあったようで、

交際途中強引な手を使って
シンプソン夫人を離婚させ、
自身との再婚を目論んだほどだった。

しかし、英国国教会では
離婚が認められていないため、
離婚歴のあるシンプソン夫人との
再婚は決して許されない。

その為、ウィンザー公は
一旦独身のまま王位を継承する。

しかし、

愛は募るばかりだ。
別れていることがこんなに地獄だとは

とのラブレターを送るほど、
結局シンプソン夫人との再婚を
どうしても諦めきれず、
また英国民からの理解も得られず、

…私は国王として
重大な責任と義務を果たすことが
到底不可能である。
愛する女性の助けと支えなしでは…

この言葉を残し、
王位をわずか1年足らずで退位し、
弟・ジョージ6世に譲位する。

その後、ウィンザー公は
マスコミから逃げ回ること
半年が過ぎた1937年6月3日、
英国王室の理解を得ないまま
フランスのトゥール近郊で
密かにシンプソン夫人と挙式する。

800px-King_Edward_VIII_and_Mrs_Simpson_on_holiday_in_Yugoslavia,_1936

そして、そのラブロマンスは
「王冠を賭けた恋」と呼ばれた。

なお、英国王室が
二人の結婚を認めたのは、
それから28年経った
1965年のことだったという。

1965年、この年、
ボクが生を受けたのだ(笑)