初・信 州 善 光 寺 。

信州善光寺 山門

2017年8月13日(日)


身は茲に心は信濃の善光寺 導き給え弥陀の浄土へ。

さて、先月の信州旅行の際に予てからの念願だった松本城上田城にお邪魔してきたことは既にご報告済みですが、その帰り道に信州が誇る巨大仏閣・信州善光寺に参拝してきたご報告をすっかり失念してました(汗)

今更で仏様に罰当たりそうですが、その参拝の模様をぜひご覧ください。

因みにJR長野駅に着いてまず驚いたのが、松本と同様に長野もまたとても洗練された街並みであったことデス。19年も前の1998年に冬季オリンピックが開催されてますが、その当時の面影を今もしっかり残しているってことでしょうか。本当に素晴らしいことですネ。

なお、善光寺はJR長野駅からは徒歩だと30分、バスだと15分ほどの距離にあります。

行きは徒歩で、帰りはバスがお薦めかな。

さ、長野駅から続く中央通りをまっすぐ歩いて参道に入ってみましょう・・・

信州善光寺

最初に見えるのがこの仁王門。

山号の「定額山」(じょうがくさん)と書かれてます。

信州善光寺 阿形像

仁王門左に立つ開口の阿形(あぎょう)像。

信州善光寺 吽形像

仁王門右に立つ口を結んだ吽形(うんぎょう)像。

どちらも高村光雲と弟子の米原雲海の合作だそうデス。

続いて、仁王門をくぐって賑わいのある仲見世通りに入り、最初に目にするのが・・・・

信州善光寺

重要文化財の山門(三門)。

信州善光寺

有料になりますが、ご覧のように山門に上ることも可能デス。

そして、山門から見える絶景がコチラ。

信州善光寺 山門

仁王門の向こうがJR長野駅デス。

信州善光寺 山門 本堂

1953年に国宝指定された善光寺の本堂。

信州善光寺

重要文化財の経蔵。

信州善光寺

コチラが下から見た本堂。

本堂の大きさは全国で9番目を誇ります。建物内での写真撮影は禁止されてますので詳しくご紹介できませんが、本堂内では何人もの僧侶の方々が熱心にお経をあげている姿をご覧になれますヨ。

そして、この本堂の下にある一寸先も見えない真っ暗な通路を歩く「お戒壇巡り」も有料体験できます。なお、お戒壇巡りは別名「胎内めぐり」とも言われています。京都の清水寺にも同様の儀式があるとか。

信州善光寺

「お数珠頂戴」の儀式。

善光寺の大勧進貫主(天台宗の男僧)や大本願上人(浄土宗の尼僧)が参道を往復される際には、ご覧のように参拝者が跪いて数珠を頭に当ててもらうことができます。この儀式を「お数珠頂戴」と呼ぶそうデス。今回ボクはたまたま運よく大勧進貫主から数珠を当ててもらうことが出来ました。

以上、「長野の玄関は善光寺。」と言ってもいいほどの存在感を放つ信州善光寺。長野が長寿県日本一になっていることから考えても、その御利益にきっと間違いはないことでしょう。

 

□□□ 東雲乃史歴 □□□□□□□□□□

信州善光寺には大変な歴史的秘話が隠されていたことをご存知でしょうか。武田信玄、上杉謙信、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康などなどの錚々たる戦国武将による信州善光寺の御本尊・一光三尊阿弥陀如来像(以下、善光寺如来)を巡る激しい争奪戦の事実デス。以下、その顛末をぜひご一読ください。

信州善光寺の創建は大化の改新前の642年もしくは644年、または654年頃とされる大変古い歴史をもつ由緒ある寺院デス。鎌倉時代には源頼朝や北条一族が厚く善光寺を信仰し、諸堂の造営や田地の寄進を行ったことで規模を拡大していったそうデス。

戦国時代に入ると、甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信が信州善光寺にほど近い川中島近くで五次の合戦を繰り広げたことはよく知られていますが、第二次合戦が始まった1555年(弘治元年)頃、なんと武田信玄は信州善光寺ご本尊の善光寺如来や寺宝、寺僧に至るまでを甲斐に移転させ、1558年(永禄元年)に甲斐善光寺を創建させます。

対して、上杉謙信も第三次川中島の戦いの終結後、善光寺如来や寺宝を越後へ持ち帰り、直江津(現在の新潟県上越市)に如来堂を建設したとされます。これにより直江津は信濃からの移住者によって大変栄えたとも言われています。但し、謙信の持ち帰ったとされる善光寺如来は信玄より後に持ち帰っていることになるので本物の本尊像ではなかった可能性が高いと思われます。

その後、1575年に織田信長・徳川家康連合軍との長篠の戦いで敗れた武田氏が滅亡すると、今度は信長の嫡男・織田信忠が甲斐善光寺に安置されていた善光寺如来を美濃国岐阜城城下に移転させ、岐阜善光寺が建立されてしまいます。さらに1582年の本能寺の変により信長・信忠親子が討たれると、信長次男・信雄により善光寺如来は尾張国清州城城下(愛知県清須市)へ移されます。そして、翌年1583年に徳川家康の命により甲斐善光寺のほうへ再び戻されることになるのデス。

がしかし、1596年に発生した慶長伏見地震により京都・方広寺の大仏像が倒壊すると、今度は天下統一を果たした豊臣秀吉の命により、善光寺如来が今度は京都へもたらされ、大仏殿にご本尊として安置されるようになります。さらにその後、秀吉が体調を崩すと、善光寺如来の祟りではないかと噂されるようになったため、1598年ついに善光寺如来は元の場所である信州善光寺に40年ぶりに帰されることになったのデス。なんとも数奇な運命を辿っていて驚きですよね。なお、秀吉は善光寺如来が京都から出発したその翌日に息を引き取ったそうデス。

そんな戦乱の世に不幸にも巻き込まれ、一時的に荒廃を余儀なくされた信州善光寺ですが、江戸幕府が開かれると、徳川家康より寺領千石の寄進を受け、次第に復興を遂げます。そして、1707年には巨大な本堂が落成し、一生に一度はお伊勢参りと同様、一生に一度は善光寺詣りとも言われるようになり、今日の賑わいに繋がるのでした。めでたし。めでたし。

PS.

さて、以上のような数奇な運命を辿ったその善光寺如来ですが、そもそも厨子の中に絶対秘仏として安置されてまして、創建当時に厨子の中に安置した人物以外は僧侶でさえ本物を見たことがないそうデス。因みに善光寺如来を模したとされる善光寺式阿弥陀三尊はこんな仏像デス、と言いたいところですが、リンクできません(涙)日本最古とも言われる仏像だけにその姿がちょっと気になりますよね。

※7年に一度行われる「善光寺前立本尊御開帳」で公開されるのは前立本尊と言い、ご本尊を模鋳したものだそうデス。

PS2.

『善光寺由来記』によると、1692年12月14日に柳沢吉保の仲介で、寛永寺の「現龍院敬諶」という使僧が本物の善光寺如来を検分・報告しているそうデス。破損はあるが、中尊は高さ一寸五尺(約45cm)で重さ六貫三匁(約24Kg)、脇侍は高さ一尺(約30cm)で重さ百七十匁(約0.6Kg)だったそうデス。