扇子ライフ始まる。

さ、盛夏到来だ。


さて、「扇子」と聞いて真っ先に思い浮かぶのが、新選組の筆頭局長であった芹沢鴨がいつも手にしてたとされる「尽忠報国之士芹沢鴨」と刻まれた鉄扇だ。

その芹沢鴨のアイコンとも言える鉄扇に関して、会津藩長坂隊の鈴木丹下という人物の日記にこんな逸話が残されている。

時は1863年、会津藩と薩摩藩が手を組んで長州藩を京都の街より追放した歴史的大事件「八月十八日の政変」の際、当時壬生浪士組と呼ばれていた新選組は、京都守護職の任にあった会津藩より京都御所東側に位置する仙洞御所を警備するよう緊急命令を受ける。

その命に従い壬生浪士組は直ちに、先頭に近藤勇、中ほどに芹沢鴨、殿に新見錦という布陣で、赤地に「誠」の文字を白で抜いた隊旗を立て、袖口が白の山形になった浅葱色の麻羽織りを着用した隊士80名で隊列を組んで御所に向かった。因みに近藤と芹沢のふたりだけは烏帽子帽を被っていたという。

しかし、壬生浪士組が御所西側に位置する蛤御門に達するも、門を固く守衛していた会津藩三番組の見張り兵たちが、壬生浪士組への命令を聞かされていなかった為、「当方重役方よりそのお達しがない、通すことはまかり成らぬ。」と壬生浪士らの鼻先に多数の槍先を突き立て通そうとしない。それ故に先頭にいたさすがの近藤勇もたじろぐしかなかった。

しかし、そこへ芹沢鴨ひとりが前に出て、「我々は会津中将お預かりの壬生浪士組である。公用方よりの急達によって、仙洞御所まで罷り通る!」と、鼻先に突き立てられた鋭い槍先をその鉄扇で払いながら、大胆にも蛤御門の中へひとり進み入ろうとしたというのだ。あっぱれ。

幸い会津軍奉行の西郷十郎右衛門がその場へ駆けつけ、双方の中へ割って入って事なきをえ、その後、壬生浪士組は仙洞御所を警戒し、夜間に南門を守ったという。そして、その功績が認められ、会津中将松平容保より直々に「新選組」の名を授かったということである。

なお、子母澤寛著書「新選組遺聞」の八木源之丞の息子・為三郎の回想によると、新選組隊士で浅葱色の隊服を着用していたのはごく一部だったそうで、新選組=浅葱色の隊服のイメージは後々盛られてた史実のようである。

また、公用方よりの急達は「仙洞御所の守衛」と「お花畑の守衛」の二説が存在する。

なお、ボク愛用の扇子は丸7年経過したUNITED ARROWSのオリジナル。

少々新選組っぽいカラーリングで気に入っている(笑)

今夏もどうぞ宜しくデス。