日本国憲法と幣原喜重郎。

昭和天皇 日本国憲法調印 1947年

日本国憲法に署名する昭和天皇。


本日5月3日は
太平洋戦争終戦2年後の
1947年(昭和22年)5月3日に
施行された日本国憲法を
記念しての憲法記念日デス。

その日本国憲法が如何に
紆余曲折を経て誕生したかは
以前コチラでご紹介していますが、
再びお浚いしてみましょう。

太平洋戦争を
命を掛けて終結に導いたのは、
時の首相 鈴木貫太郎と
陸軍大臣 阿南惟畿との二人羽織、
そして、昭和天皇のご聖断であると
『昭和の三傑』の著者である
堤堯氏が推理したことは
鈴木貫太郎編 第1章第2章
第3章で紹介したが、

戦後の日本の復興における
最大のキーマンとも言えるのが
この第44代総理大臣
幣原喜重郎ではなかろうか。

幣原喜重郎 800px-Kijuro_shidehara

僅か8カ月の短命政権であった為、
国民の記憶には薄い首相であるが、
この幣原喜重郎の先見の明なくして
戦後の日本の復興はなかった!
と、堤堯氏は強く唱える。

以下、著者 堤尭氏の考える
宰相 幣原喜重郎による
「救国のトリック」の外交妙技を
とくと味わっていただきたい。

第1項:日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

第2項:前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

ご存じ日本国憲法第9条である。

一般的に日本国憲法の条文は、
当時のGHQ最高司令官であった
ダグラス・マッカーサーが、
「マッカーサー草案」を元に
時の幣原内閣に無理やり押し付けた
外来憲法であると言われているが、

こと憲法第9条に関しては、
1946年1月24日正午から始まった
マッカーサーと幣原喜重郎、
二人だけの3時間に及ぶ
密談から生まれたことは
ほぼ史家の定説になっている。

そこで、著者の堤堯氏曰く、
戦争放棄・戦力不所持の2つを
最初に持ち掛けたのは
マッカーサーからではなく、
幣原のほうからだと言うのだ。

まず第1項に当たる
「戦争放棄」については
1928年のケロッグ=ブリアン条約
にも見られるように
特に目新しいものではなく、
マッカーサーも特に驚くことは
なかったであろう。

しかし、第2項に当たる
「戦力の不所持」に関しては、
被占領国側からの提案としては
前代未聞と言っていい。
さすがのマッカーサーも
度肝を抜かれたに違いない。

幣原のその提案理由は、
天皇制の廃止を強硬に迫るソ連、
オーストラリアを説得する為、
つまり、天皇制維持との
引き換えに「戦力の不所持」を
幣原は提案したと表向き思われる。

また、憲法制定当時に
中部日本新聞の政治部長だった
小山武夫氏による、
憲法調査会公聴会での以下発言も
大変重要な資料となっている。

第9条が誰によって
発案されたかという問題が、
当時から政界の問題になっておりました。
そこで幣原さんにオフレコで
お話を伺ったわけであります。

その『第9条の発案者』というふうな
限定した質問に対しまして、
幣原さんは、『それは私であります。
私がマッカーサー元帥に申し上げて、
そして、こういうふうな
第9条という条文になったのだ』
ということをはっきり申しておりました。

実は米政府もマッカーサー自身も
昭和天皇制を巧みに利用して
日本を統治したかったことから
ソ連、オーストラリアに対する
譲歩を引き出す手段として
幣原の提案はまさに渡りに船と
言えるものだったのだ。

結果、象徴天皇制、華族制廃止、
戦争放棄・戦力不所持を原則とした
「マッカーサー三原則」に則り、
GHQ主導の新憲法草案である
「マッカーサー草案」が策定され、

終戦の翌年1946年5月16日の
第90回帝国議会の審議を経て、
幣原がマッカーサーに
極秘に提案した戦力不所持が
晴れて憲法9条第2項として
組み込まれることになったのである。

その代償として幣原は、
常にマッカーサーの
言いなりだったとして、
後々「軟弱外交の幣原」という
不名誉な渾名を頂戴することになる。

因みにその大役を終えた幣原内閣は、
その6日後の5月22日、首相在職
僅か8カ月で内閣を総辞職している。

がしかしである。

著者の堤堯はここに異を唱える。

実は幣原の提案した
第9条の本当の狙いは、
全く別のところにあったのだと。

その狙いはこうだ。

当時の世界を取り巻く情勢は、
1946年3月にミズーリ州フルトンの
ウェストミンスター大学で行われた
ウィンストン・チャーチル元首相
「鉄のカーテン」演説にもある通り
東西両陣営に分かれて対立し、
米ソが緊張状態にあった頃である。

国際情勢に長けた幣原からすれば
いつ米ソを中心に東西両陣営が
戦火を交えてもおかしくないと。

極端なことを言えば、
近い将来、第三次世界大戦が、
勃発してもおかしくない情勢だと
幣原は予想していたのであろう。

つまり、日本が軍隊を持っていれば、
米ソ代理戦争の盾の一部とされて、
再び日本が戦争に巻き込まれる
可能性が多分にあったということだ。

しかし、

どんな情勢であろうと、
当時の日本の政界・世論において
「戦力不所持」など
認められるわけがなかった。

松本烝治国務大臣が策定し、
GHQからけんもほろろに
却下された松本試案でも
そんな項目は一行も見当たらない。

そこで幣原は考えた。
マッカーサーをダシに使って
日本の政界、世論をも欺いて、
巧みに「戦力不所持」を
新憲法に組み入れさせようと。

かくして、
「マッカーサー草案」において
「戦争放棄・戦力放棄」の項目が
組み入れられたのである。

つまり、幣原の怪演のお蔭で
戦後の日本は、戦争リスクを
限りなくゼロにすることが出来、
長く平和を保つことができたのだと
著者の堤 堯は推理する。

そして、
その幣原の後を継いだ首相
吉田茂が、「戦力不所持」を盾に
朝鮮戦争への参戦を徹底的に拒否、
その後、吉田の思惑通りに
朝鮮特需による半島への輸出が
国益に大きく貢献したことは
もはや周知の史実である。

当時の韓国の軍事予算は
国家予算の40%に近い数字、
対して日本の防衛予算は1%未満。
どちらが早く復興できるか、
火を見るより明らかである。

※但し、朝鮮戦争においては
軍隊としては参加しなかったものの
海上保安庁の掃海部隊からなる
「特別掃海隊」が
国会の承認を得ることなしで、
機雷を除去することを目的として
国連軍の名のもとに派遣され、
残念ながら触雷などにより
56名の隊員が命を落としている。

もちろんベトナム戦争においても
同様の結果を得ることになった。

残念ながら
この裏工作に関して
幣原は一切口を閉ざし、
後年も語られることはなった。

しかし、戦後日本の歴史は、
現実的平和主義者 幣原喜重郎の
思惑通りに進行したことは
結果論と言えど事実であり、
戦力不所持を蔑まして、
「軟弱外交の幣原」などと
果たして言えるだろうか。

そして、
幣原が策定した憲法第9条は、
見事に次期首相 吉田茂に
引き継がれることになるのであるが、
ぜひこの続きは、
本書を読んでご確認頂きたい。

サンフランシスコ平和条約締結、
戦争で負けるも外交で勝った
日本のチャーチルこと、
否、徳川家康の再来とも言える
吉田茂の狸ぶりを
思い存分堪能出来るかと。

因みにお馴染みの白洲次郎は、
残念ながら少ししか登場しません。

以上、繰り返しますが、
『 昭和の三傑 』を読まずして
昭和史を語る事勿れである。

□□□ 東雲乃囁 □□□□□□□□□□

さ、GW後半張り切っていきましょ!