徳川家康生誕の地・岡崎城。

岡崎城 okazaki castle 徳川家康生誕の地

2017年4月2日(日)晴天


愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ。
by オットー・フォン・ビスマルク

歴史から教訓を学ばぬ者は、過ちを繰り返して滅びる。
by ウィンストン・チャーチル

歴史に学ばない国民は滅びる。
by 吉田 茂

歴史を制する者は天下も制す。
by 東雲乃風

というわけで、
昨年9月の浜松城
今年3月の会津若松城
そして、織田信長の岐阜城
その翌日に訪問したのが、
この徳川家康生誕の地・岡崎城。

既に「家康公遺言」にて
チラッと紹介済みですが、
もうちょこっとだけご覧下さい。

岡崎城 okazaki castle 徳川家康生誕の地

家康公生誕の地
ということもあって、
今も家康公の産湯の井戸が
現存しています。

岡崎城 okazaki castle 徳川家康生誕の地

僭越ながら
その井戸の水で
手を清めさせて頂きました。

で、家康公の生まれですが、
相当に波乱万丈に満ちています。

まず祖父・松平清康は
弱冠25歳で家臣に暗殺され、
家康公の父・松平広忠も
家康がまだ6歳の時、
22歳で不慮の死を遂げています。

さらに家康公自身も
幼少期から青年期に至るまで
織田や今川の人質の身となり、
苦難の道を歩みます。

そして、1560年6月12日、
家康公弱冠17歳の時、
俗にいう桶狭間の戦い

今川軍の先鋒として
およそ千人の兵を率い、
家康公は大高城への
兵糧の運び込みに成功します。

がしかし、

大高城で待機していると、
主君・今川義元が
桶狭間で討たれたとの報せ。

家康公は手勢18名で
松平家の菩提寺・大樹寺に
退却するも敵軍に包囲され、
武士の習いに従って
自害することを決心します。

しかし、

第13代住職・登誉天室が
「厭離穣土欣求浄土」という
浄土宗の平和思想で諭すと、
心機一転生きる道を選びます。

※「厭離穣土欣求浄土」
(おんりえどごんぐじょうど)
荒れ果てた世の中を嫌い、
平和な浄土を求めるならば、
必ずや仏の加護を得られて
大義を成せるだろうの意味。

そして、僧侶たちの手を借り、
命からがら岡崎城に辿り着き、
おんな城主直虎」でも
そのシーンがあったとおり、
この岡崎城で今川家からの
独立を宣言したというデス。

そして、

厭離穣土欣求浄土の旗印の下
その40年後の1600年に
関ヶ原の戦いを制して、
事実上の天下統一を
成し遂げたというわけデス。

岡崎城 okazaki castle 徳川家康生誕の地

前回の繰り返しになりますが、

「家康公遺言」

わが命旦夕に迫るといへども将軍斯くおはしませば天下のこと心安し
されども将軍の政道その理にかなはず 億兆の民艱難することもあらんには たれにても其の任に変らるべし
天下は一人の天下に非ず天下は天下の天下なり たとへ他人天下の政勢をとりたりとも四海安穏にして万人その仁恵を蒙らばもとより 家康が本意にしていささかも うらみに思ふことなし

以下、現代語訳

私の命もそう長くはないが、将軍・秀忠が立派に政治を行ってくれてるので、天下が乱れるような心配はしていない。
しかし、将軍の政治が道から外れ、もし万人が苦労するようであれば、有無を言わさず政権は他に譲るべきである。
天下は一人のためにあるのではない。天下は万人のためにあるものだ。だから仮に他の誰かに政権が譲られたとしても、万人皆が幸せに暮らしていけるのであれば、私家康が恨みに思うなどということは決してない。

こんな遺言を遺したのも
元をたどれば
大樹寺の登誉天室が諭した
「厭離穣土欣求浄土」の
平和思想の影響であること
相違ないかと。

「厭離穣土欣求浄土」を
スローガンとしたのは
家康公弱冠17歳のとき、

やぱり神君に偽りなしデス。

と、言いたいところですが、
あくまでも大樹寺に伝わる
美し過ぎる言い伝えでして、
創作の域を出ないのかなと。

真実はいつも闇の中デス。

岡崎城 okazaki castle 徳川家康生誕の地

本多忠勝像。

徳川四天王とも
徳川十六神将とも
徳川三傑とも数えられてます。

家康の5歳年下で
桶狭間の戦いの時が
忠勝の初陣だったとのこと。

それ故にここ岡崎城で
ずっと守っているわけですね。

三河武士のやかた 家康館

この三河武士のやかた
家康館もお薦めの場所デス。

真実か創作かは
神のみぞ知るですが、
沢山の逸話を勉強できます。

岡崎城 okazaki castle 徳川家康生誕の地

以上の岡崎城、
天守閣は小さいですが、
戦国の歴史を感じるには
十分すぎるほど立派な城でした。