人生初・曜変天目。

BRUTUS 2019年5月1日号


完成形が世界で3点しか現存しなく、時価50億円を下らないとされる曜変天目。その3点のうち最も傷が少ないとされる静嘉堂文庫所蔵の「稲葉天目」を隣接する美術館で観賞してきました。

そもそも曜変天目とは13世紀頃の南宋時代に現在の中国福建省南平市建陽区にあった建窯にて作られた瑠璃色の斑紋が浮き出た茶碗のことで、中国で仏教修業を終えた日本人僧が持ち帰った茶碗の中に奇跡的に紛れ込んでいたようデス。もちろん中国でも曜変天目は出土してるんですが、残念ながら欠けた状態のものしか見つかっておらず、未だ完成形は見つかっていません。

日本においては15世紀末に能阿弥と相阿弥が書き記したとされる「君台観左右帳記」に「曜変」「油滴」「建盞」「烏盞」「鼈盞」「能皮盞」「灰潜」「黄天目」「只天目」「天目」「茶碗」といったように細かく中国産茶碗の種類が区別されており、その中でも曜変天目は「曜変。建盞の内の無上也。天下におほからぬ物なり。萬匹のものにて候。」と、室町時代中期より最上級の格付けがされていたようデス。

さらに足利家から譲られたと思われる織田信長保有の当時時最も美しいとされた曜変天目が本能寺の変で焼失してしまったなんていう逸話も残されているとか。

さて、今回拝見した「稲葉天目」にも他の曜変天目にはない逸話が残されています。

江戸時代初めの頃、稲葉天目を所蔵していた三代将軍・徳川家光が乳母・春日局が重い病に倒れたことを聞き、この稲葉天目に家光自ら薬を入れて春日局に飲ませようとしたんだそうデス。

しかしながら、若き日に家光が罹った天然痘の平癒を祈願して以来、春日局は薬断ちをしていたことから、稲葉天目に入った薬を飲むふりしただけに終わり、間もなく春日局は命を落としてしまいます。

それが故に、稲葉天目は春日局の生家である淀藩主稲葉家に伝わり、大正時代まで稲葉家で大切に保管されていたそうデス。

その後、大正7年(1918年)に稲葉家が三井財閥の小野哲郎氏に拾六萬八千園(現在の16億円程度)で売却し、さらに昭和9年(1934年)に三菱4代目総帥の岩崎小弥太の手に渡ります。そして、小弥太は「天下の名器を私如きが使うべきでない」として、その後に自身が創設した静嘉堂文庫のコレクションに稲葉天目を加え、今日まで大切に保管されるようになったとのことデス。

静嘉堂文庫。

二子玉川からバスで15分ほどの東京都世田谷区の岡本にあります。

今回の展示は6/2まで。

なお、美術館内では写真の撮影が禁止だったため、外から撮影した小さな「稲葉天目」をどうぞご覧ください(苦笑)