私本太平記 vol.04ー後醍醐天皇 vs 足利尊氏

南北朝のはじまり~はじまり~


さて、鎌倉幕府滅亡後、なんとか武家勢力より天皇親政を取り戻した後醍醐天皇でしたが、建武の新政を開始したのも束の間、旧北条氏の守護国を中心とした旧幕府勢力が各地で反乱。中でも北条高時の遺児・北条時行が叔父・北条泰家とともに挙兵し、尊氏弟・足利直義が守護していた鎌倉を襲撃、直義軍を鎌倉より追い出し、北条一族が再び鎌倉を奪還してしまいます。

そんな弟・直義のピンチに尊氏は時行討伐のための征夷大将軍、総追捕使の任命を朝廷に求めます。しかし、後醍醐天皇は尊氏の要求を頑なに拒否。憤慨した尊氏は勅状を得ないまま鎌倉の北条軍討伐に向かうのでした。

機嫌を悪くした尊氏に対し慌てて後醍醐天皇は征夷大将軍ではなく征東将軍なる中途半端な役を任命するんですが、それは後の祭り。北条軍を難なく鎌倉から追い払った尊氏は後醍醐天皇の帰京命令を拒否してそのまま鎌倉に残留。尊氏は朝廷の許可なく勝手に家臣たちに恩賞を配り始めます。尊氏の命令無視に業を煮やした後醍醐天皇は怒りのあまり今度は新田義貞に尊氏討伐の勅命を下してしまいます。しかし、その義貞は箱根・竹ノ下の戦いであっさり尊氏に撃沈されます。そして、尊氏はそのまま京都へ進軍、後醍醐天皇の目前まで迫ります。

ところが、今度は陸奥国より駆けつけた花将軍こと北畠顕家の5万の大軍勢が新田義貞・楠木正成らの後醍醐軍と合流し大反撃を開始。まさかの加勢に足利軍は敗走、わずかな兵を伴って命からがら九州へ落ち延びていくしかなかったのでした。

すると1年後、今度は九州で態勢を立て直した尊氏は持明院統の光厳上皇の院宣を獲得し、九州・中国地方の勢力を味方につけ再び京都に向けて快進撃。新田・楠木軍を湊川の戦いで討ち破り、比叡山に逃亡していた後醍醐天皇を幽閉、三種の神器も奪い取ったことで光明天皇を新天皇に擁立し、1336年みごと尊氏は室町幕府開設の宿願を叶えるに至るのでした。

がしかし、それでも諦めないのが七転び八起きを地で行く後醍醐天皇。幽閉されていた花山院をあの手この手で脱出し、尊氏に渡した三種の神器は贋物であるとして、吉野に自らを天皇に擁した南朝を開き、尊氏が支配する北朝に対抗。これが後に言う南北朝時代の幕開けになるのでした。しかし後醍醐天皇は3年後の1339年義良親王(後村上天皇)に譲位し、吉野金輪王寺で朝敵討滅・京都奪回を遺言して崩御。享年52(満50歳没)で波乱万丈の人生に幕を下ろすのでした。

なお、後醍醐天皇の崩御後、尊氏は夢窓疎石を開山として後醍醐天皇の菩提を弔うための天龍寺を建立しています。

【後醍醐天皇 辞世の句】
玉骨は縦ひ南山の苔にうづむるとも 魂魄は常に北闕の天を望まんと思ふ 

以上、後醍醐天皇 vs 足利尊氏、ホント壮絶すぎる権力闘争でした。┐(´∀`)┌ヤレヤレ

私本太平記 vol.01ー笠置山中をサバイバルする後醍醐天皇
私本太平記 vol.02ー後醍醐天皇、命懸けの隠岐島脱出
私本太平記 vol.03ー足利尊氏&新田義貞のW謀反
私本太平記 vol.04ー後醍醐天皇 vs 足利尊氏
私本太平記 vol.05ー尊氏 vs 直義の史上最大の兄弟喧嘩

 

□□□ 東雲乃呟 □□□□□□□□□□

光石研さんオニツカのFinishを見守る。