私本太平記 vol.05ー尊氏 vs 直義の史上最大の兄弟喧嘩ー

足利直義 足利尊氏

いよいよ最終章のご紹介デス。


私本太平記 vol.01ー笠置山中をサバイバルする後醍醐天皇
私本太平記 vol.02ー後醍醐天皇、命懸けの隠岐島脱出
私本太平記 vol.03ー足利尊氏&新田義貞のW謀反
私本太平記 vol.04ー後醍醐天皇 vs 足利尊氏

日本史史上、戦国時代、幕末期、昭和期と並ぶ波乱の時代であった太平記時代。その最後の戦いとなったのが、兄・足利尊氏と弟・直義との史上最大とも言われる壮絶な兄弟喧嘩デス。なぜ幼少の頃より気心が知れたはずの兄弟が戦わなければならなかったのか。現在再放送中のNHK大河ドラマ「太平記」に先駆けてのご紹介デス。

さて、後醍醐天皇がお隠れになった10年後の1349年、今でいうCEOとCOOのような関係でずっと仲良し兄弟だった兄・尊氏(右)と弟・直義(左)でしたが、不幸にも尊氏のあずかり知らぬところで、弟・直義派と尊氏の執事だった高師直派の家臣たちのあいだで権力争いが勃発。将軍・尊氏は仕方なく直義からの讒言を受けて高師直の執事職を解任することになるんですが、当初は大人しく引き下がっていた高師直派が突如直義邸を急襲し、さらに将軍御所こと尊氏邸に逃げ込んだ直義を大軍で包囲するというある意味謀反とも言える事件が勃発。追い込まれた直義は尊氏を仲介に政務から退き出家することを条件になんとか師直と和睦し命を救われます。この事件がいわゆる「観応の擾乱」の始まりとなります。

すると翌年1350年、今度は尊氏の落胤で直義の養子になっていた直冬が、義父・直義の政権追放に抗議するが如く長門探題着任命令を無視し、備後国の鞆津(鞆の浦)に在留して謀反の構えを見せたことから、尊氏は高師直らと直冬討伐のため中国地方へ自ら遠征します。ところが、その尊氏の留守に乗じて、出家したはずの弟・直義が桃井直常、畠山国清ら直義派の武将たちを伴って南朝側にまさかの降伏!?

南朝に降って一気に勢力を拡大した直義は、中国遠征より戻ってきた尊氏軍を打出浜の戦い(1351年)で難なく撃破。直義は敵対していた高師直・師泰兄弟の出家・配流を条件に尊氏と和睦し、義詮の補佐として再び政権の座に返り咲くことになるんデス。そして、高師直・師泰兄弟は配流先への護送中に直義派の上杉能憲によって暗殺されてしまいます。

さて、その後一度は仲直りしたに見えた尊氏と直義兄弟でしたが状況は再び一変します。尊氏は佐々木道誉の謀反を名目に近江へ、嫡男・義詮は赤松則祐の謀反を名目として播磨へそれぞれ大軍を率いて出兵すると見せ掛けながら、今度は尊氏のほうが秘密裏に南朝に降伏、北朝を廃して「正平一統」を成立させ、その南朝から直義追討の綸旨を得るという強硬策にでるんデス。

この尊氏と義詮親子の一連の動きに対し、さすがの直義もなすすべなく京を放棄、北陸を経由して鎌倉へ逃亡するんですが、もはや時既に遅し。東海道を進軍してきた尊氏の大軍によって、直義は薩た峠の戦いや相模早川尻の戦いで連敗、最後には捕らわれの身となって鎌倉・浄妙寺境内の延福寺に幽閉されてしまいます。

そして、1352年(正平7年/観応3年)3月12日、高師直の一周忌にあたるその日に直義は毒殺され、史上最大の兄弟喧嘩こと観応の擾乱は3年の月日をもって幕を閉じるのでした。

【足利尊氏 辞世の句】
文武両道は車輪のごとし
一輪欠ければ人をわたさず
しかれども、戦場に文者は功なき者なり

以上、これら太平記の世というのは一般庶民とってホント迷惑な時代であったことは間違いないところですが、これほど七転び八起な波乱万丈の人生を歩んだ天皇と将軍は後にも先にもいなかったのではないでしょうか。了

 

□□□ 東雲乃呟 □□□□□□□□□□

Progress / スガシカオ

世界中に溢れているため息と
君とボクとの甘酸っぱい挫折に捧ぐ・・・