了・天皇の戦争責任。

天皇の戦争責任

憐 れ ニ ッ ポ ン 。


天皇の戦争責任
著者:井上清

本書のテーマである「昭和天皇の戦争責任」については真っ先に割愛(苦笑)

そもそも陸軍参謀本部というか陸軍の中堅どころから若手将校に至るまであんな血気盛んなイケイケGOGO状態じゃ統帥を司る昭和天皇も日米開戦を承認せざるえないよなってことで悩むことなく割愛した。

日米戦を研究する総力戦研究所が何度シュミレーションやっても「日本必敗」を導き出してるのに、「日露戰争で、わが大日本帝国は勝てるとは思わなかった。然し勝ったのであります。あの当時も列強による三国干渉で、やむにやまれず帝国は立ち上がったのでありまして、勝てる戦争だからと思ってやったのではなかった。戦というものは、計画通りにいかない。意外裡な事が勝利に繋がっていく。したがって、諸君の考えている事は机上の空論とまでは言わないとしても、あくまでも、その意外裡の要素というものをば、考慮したものではないのであります。」などと東条首相は否定するだけで、万が一敗戦したときのことを考えようとせず、日本国民の中にもそんな楽観的で好戦的な空気が流れていた。もはや昭和天皇に戦争を止められるだけの生彩はない。

で、その代わりに常勝しか頭になかった東条英機首相がどの時点で敗戦を覚悟したか?に注目して読んでみた。

1944年6月6日、米英連合国によるノルマンディー上陸作戦の成功、6月末、独ソ戦におけるドイツ中央軍の壊滅で頼みの綱のドイツが事実上沈没状態、1944年7月9日、日本の絶対国防圏であったサイパンが陥落、以上の戦況悪化の報を次々に受けた昭和天皇は、承久の乱で鎌倉幕府の2代執権・北条義時に敗れ、隠岐に配流された後鳥羽上皇を自分に重ね合わせたのかノイローゼ状態になられたという。

つまり、昭和天皇が神経衰弱になるほどの戦争悪化の報を上奏せねばならなかった1944年7月前後には東条は敗戦を意識していたと考えられる。

にも拘わらずなぜ終戦が1年1ヵ月も遅れたのか。。。

実はサイパン陥落で敗戦を悟った木戸内大臣や近衛前首相をはじめとした重臣らは、東条内閣を倒し皇族内閣を成立させ、一気に停戦にもちこむことを検討していたとある。しかしながら、あらゆる手段を講じて辞職を嫌がる東条内閣を倒したものの、今度は大本営が国民だけでなく昭和天皇にまで出鱈目な戦果を上奏し始め、まだ勝機が残っていると昭和天皇は踊らされ、重臣たちの和平工作に耳を傾けることはなく。。。

ま、惨敗に次ぐ惨敗を連戦連勝などと偽って発表をするような大本営が停戦=降伏など1mmも受け入れるわけがなく、万一和平を無理やり実行してたならば、重臣たちは全員抹殺、昭和天皇は監禁されていたはずで。

※大本営発表の嘘八百な内容についてはコチラが詳しい。

結果、ポツダム宣言受諾のご聖断が下されるには、広島と長崎の原爆投下、そしてソ連の参戦まで待たなければならなかったという悲劇。

PS.

昭和天皇が開戦に前のめりになっていたことが、開戦80年となった今年に閲覧可能となった百武三郎日記にて判明。内大臣だった木戸幸一の昭和天皇を引き止めようとする証言が日記に記載されていた模様。

君臨すれども統治せずを基本とした昭和天皇が開戦後の戦況に前のめりになっていったことはよく知られているが、開戦前にも既に前のめりだったとは・・・(苦笑)

当時海軍軍令部に所属し海軍の内情を知っていた高松宮が再三兄の昭和天皇に開戦慎重論を言上していたのはそういう事情があったからか。。。

 

□□□ 東雲乃呟 □□□□□□□

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