憧・狩野永徳と京狩野。

もっと知りたい狩野永徳と京狩野

もっと知りたい 狩野永徳と京狩野


還暦まで2年と3カ月
日々爺さん化が進むようで
日本の古典絵画に没頭する始末。

とはいえ戦国時代から
江戸期にかけて時代を築いた
狩野派についてはまだまだ知識不足。

特に安土桃山時代
織田信長と豊臣秀吉の下で
才を発揮した狩野永徳についても
まだまだ表面をなぞった程度しか知らない。

ま、そんなわけで
冒頭の専門書に頼ったわけだが
思いのほか分かりやすくてビックリ。

狩野永徳には大きく分けて
以下の3つの時代があったとのこと。

◆細画の時代

永徳20代の頃
洛中洛外図屏風に代表されるように
時間をかけた細密画を描いていた時代。

花鳥図押絵貼屏風(個人蔵)
・洛外名所遊楽図屏風(個人蔵)
洛中洛外図屏風上杉本(米沢市上杉博物館所蔵)

◆大画の時代

30-40代半ばの頃
織田信長のお抱え絵師として
安土城の障壁画をはじめとした
城郭御殿や寺社の障壁画を
数多くこなす必要に迫られ
必然的に短時間で制作できる
荒々しい大画に傾斜することに。

松に叭叭鳥・柳に白鷺図屏風(個人蔵)
花鳥図(大徳寺聚光院蔵)
琴棋書画図(大徳寺聚光院蔵)
唐獅子図屏風(宮内庁三の丸尚蔵館)

◆怪奇様式への傾斜

40代後半の頃
権力者からの依頼は益々増加し
昼夜休みなく働くこととなり
檜図屏風のような雑な巨大絵が濫作される。

檜図屏風(東京国立博物館蔵)

そして、精魂尽き果てたのか48歳の若さで死去。

安土城、聚楽第、大阪城
どれかひとつでも障壁画が残っていれば・・・

さて、その代わりではあるが
永徳の弟子たちが京都狩野として
名作を遺しているのでご紹介したい。

◆狩野山楽(1559-1635)

安土城障壁画や正親町院御所障壁画
(現南禅寺本坊大方丈障壁画)など
永徳の下で制作に加わったという。

特に東福寺法堂天井画の制作中に
永徳が病で倒れたあと
山楽が引き継いで完成させたという。

龍虎図屏風(右)

龍虎図屏風(左)

龍虎図屏風(妙心寺蔵)

牡丹図襖(大覚寺宸殿障壁画)

牡丹図襖(大覚寺宸殿障壁画)

牡丹図襖(大覚寺宸殿障壁画)

紅梅図襖(大覚寺宸殿障壁画)

紅梅図襖(大覚寺宸殿障壁画)

松鷹図(二条城・二の丸御殿・大広間四の間障壁画)

この松鷹図については
山楽説と探幽説があったが
近年山楽説が有力とされている。

◆狩野山雪(1590-1651)

狩野山楽の弟子であり京都狩野の後継者。

その後、京都狩野は
山雪の子・狩野永納、孫・永敬に引き継がれる。

雪汀水禽図屏風右隻

雪汀水禽図屏風左隻

雪汀水禽図屏風(個人蔵)

梅花遊禽図襖絵(1631年、妙心寺天球院)

梅花遊禽図襖絵(1631・妙心寺天球院蔵)

老梅図1647年

老梅図(1647・メトロポリタン美術館蔵)

PS.

さて、ひとつ疑問が。。。

東京国立博物館にて
2020年春に開催された展覧会
桃山天下人の100年》にて鑑賞したコチラの屏風絵。

「四季花鳥図屏風」 白鶴美術館蔵 伝狩野永徳

「四季花鳥図屏風」 白鶴美術館蔵 伝狩野永徳

伝狩野永徳《四季花鳥図屏風》

白鶴美術館所蔵のこの屏風絵が
本書によると永徳の作品ではなく
その父・松栄が1581年に描き
筒井順慶から興福寺に贈られた
四季花鳥図屏風であると記載されていた。

果たしてどっちが正解なんだろ(謎)

『伝』がつくとややこしいネ。

狩野元信 四季花鳥図屏風

狩野元信 四季花鳥図屏風

因みに上の六曲一双の屏風は
同じ白鶴美術館に所蔵されている
松栄の父、永徳の祖父にあたる

狩野元信の描いた《四季花鳥図屏風》。

狩野家の遺伝子凄いわー

 

□□□ 東雲乃呟 □□□□□□□

青春18きっぷで行きたい阿寺渓谷。