衛・上田城。

上田城 東虎口櫓門

六文銭は三途の川での渡し賃。


さて、国宝 松本城に続いて
その翌日にお邪魔したのは
勇猛果敢な徳川の大軍を
2度も蹴散らした史実が残る
鉄壁の守り信州・上田城。

夜、上田駅に到着するや
三浦文彰氏がソリストを務める
この真田丸のオープニング曲が
頭の中で鳴り響いたのは
言うまでもありません(汗)

で、上田城がどんな城なのか
まずはコチラの模型をご覧下さい。

上田城 仙石氏統治時代?

真田昌幸が築城した頃の
上田城の構造は実は正確には
分かってないらしく

しかも関ヶ原の戦い
家康の命により一度破却された為

この城郭の模型は
後に上田領を統治した
仙石忠政が再建した上田城が
原型になってることご了承下さい。

ちょっと分かりにくいですが
城や城下は高台になっていて
上のほうに流れている千曲川と
手前の尼ヶ淵によって守られる
天然の要害になっています。

天守閣は存在してなかったようで
守りに徹した平城だった模様デス。

上田城 明治初年

明治初年の上田城。

明治政府の廃城令により
7棟あった櫓の建物は
西櫓を残して民間に売却。

この写真では北櫓が
まだ残っているようですね。

上田城 昭和初年

昭和初年の上田城。

ご覧のように
西櫓と石垣を残してるだけで
本丸も他の櫓も姿はありません。

尼ヶ淵も埋め立てられ
畑になってしまったようデス。

昭和19年 遊郭の建物になっていた北櫓と南櫓

移設された北櫓と南櫓は
なんと無理やり合体されて
遊郭の建物になってたそうな。

この危なっかしい建物が
昭和19年頃のその遊郭デス。

昔の人は凄かった(苦笑)

上田城 昭和37年

昭和37年頃の上田城。

遊郭になっていた建物を
市民運動によって買い取り
北櫓・南櫓ともに
目出度く元の場所に
戻れた画というわけデス。

昔の人は偉かった。

上田城 東虎口櫓門

東虎口櫓門

そんな複雑な歴史を経て
今も現存している上田城を
振り返ってみましょう。

上田城

まずは東虎口櫓門右に
鎮座しているのが真田石。

真田昌幸の嫡男・信之が
松代へ移封となった際に
この真田石を形見として
移設させようとしましたが
大勢の人の力をもってしても
微動だにしなかったとか。

真田神社。

本丸御殿跡地の
南側辺りにある神社デス。

明治12年、旧藩主であった
松平家を祀る神社として
松平神社が創立され

昭和38年に歴代の城主を合祀し
真田神社に改称されたそうデス。

真田井戸。

この真田井戸には
抜け穴が隠されていて
城北の太郎山麓の砦に
抜けていたという伝承ありデス。

その為
仮に兵糧攻めにあっても
心配する必要はなかったとか。

西櫓。

仙石忠政によって
1626年からおこなわれた
復興工事の際に建てられた櫓。

この西櫓だけが江戸初期から
そのまま現存している
唯一の櫓と言われています。

上田城

左側が西櫓、右が南櫓。

もともと千曲川の支流だった
尼ヶ淵からの撮影デス。

現在は芝生になっていますが
ここから城を見上げると
如何に上田城が難攻不落の城
であったかということが
とてもよく分かると思います。

続いてお邪魔したのが
上田城跡公園内にある
旧上田市民会館の特別企画展。

入館料は大人300円

最初に出迎えてくれたのは

左から

真田家中興の祖・真田幸隆
表裏比興の者・真田昌幸
真田日本一の兵・真田信繁

大河ドラマ真田丸
昌幸役の草刈正雄さんが
豪快に着用していた毛皮デス。

懐かしいですよね。

そして、目玉は・・・

真田幸村公資料館の
澤田平コレクションより
一時的に貸し出されている
馬上宿許筒(しゅくしゃづつ)!

そうデス。
大阪夏の陣にて
真田信繁隊が
徳川家康本陣を急襲し
信繁がこの馬上宿許筒で
家康を撃ち取ろうとしたものの

目前のところで馬がよろめき
信繁は宿許筒を落としてしまい
家康は九死に一生を得たという
家康撃ち損じの伝説」が
語り継がれている銃なんデス。

信繁が落とした馬上宿許筒は
結果、徳川側の兵に拾われ
大阪夏の陣の戦利品として
紀州徳川家が幕末まで保管し

戦後一旦米国人の手に渡るも
鉄砲研究家の沢田平さんが
米国人より買い取ったことで
今は澤田平コレクションの
ひとつになっているそうデス。

最後に上田城空撮の映像をどうぞ。