花 神 。

「花神」=長州の討幕司令官・大村益次郎を主人公にした司馬良太郎の小説。「花神」の意味は中国語で花咲か爺さんのこと。


2018年3月24日(土)午前

吉田松陰と高杉晋作を主人公にした司馬遼太郎の「世に棲む日日」に感銘を受け、長州へ旅することを決意したのは昨年11月。その4カ月後、大村益次郎を主人公にした同じく司馬遼太郎の「花神」を脇に携え、2泊3日の長州を巡る歴史の旅にお邪魔してきました。

3月24日10時、無事山口宇部空港に降り立ち、早速向かった先はJR西日本・山陽本線「四辻駅」。

四辻駅周辺は見渡す限り田園風景広がる長閑な村で、今も昔も「鋳銭司」という地名で呼ばれています。

この地に1824年5月30日、生を受けたのが・・・

軍神・大村益次郎。

靖国神社参道に聳え立つ冒頭画像の巨大銅像でもよく知られていますよね。

刀をふることも馬に乗ることさえできなかった人でしたけど、蘭学の教養と知恵だけで徳川幕府を倒した長州の影の名将デス。

そして、紛れもなくこの場所が大村益次郎生誕の地であり、生家が存在していたところなのデス。

「兵部大輔」と記載されてる通り大村益次郎は戊辰戦争中、今でいう防衛省の初代事務次官を務めた人物であり、特に倒幕後の平和な国を目指すため、薩摩や長州などの藩兵に依存しない日本正規軍の創設を早々に提案し、反対勢力の圧力を受けながらもそれに奔走したことは特筆すべきことかと。今の時代で例えるなら米・露・中から軍事力を取り上げ、国連正規軍を新たに創設させるほど大胆な発想と言えましょう。

さて、この大村益次郎、通称・村田蔵六、もともとは大阪にあった緒方洪庵の適塾で医学と蘭学を学んだ鋳銭司村の百姓医でしかなかったんですが、適塾の塾頭になるほど蘭学に秀でたことから後に伊予宇和島藩に100石取の上士格待遇で雇用されます。さらに藩主伊達宗城の参勤にしたがって江戸に出ると、宇和島藩士に籍をおいたまま築地にあった幕府設置の武芸訓練機関・講武所の教授も兼ね、蘭学だけではなくたまたま西洋兵学書の翻訳から学んだ兵学も教えるようになります。

そうこうしているうちに日比谷の長州藩上屋敷で開催された蘭書会読会において、後の維新の三傑こと桂小五郎(木戸孝允)と運命的な出会いを果たし、宇和島藩の高給待遇を辞去し、薄給にも拘わらず出身地である長州藩の藩士に身を替えるのでした。

しばらくして萩に帰国すると、藩校明倫館で西洋兵学教授方となり、藩の軍備関係の業務に邁進するようになります。第二次長州征伐では四境のひとつである石州口方面の指揮を任され、幕府側の浜田城を陥落させた上に石見銀山をも占領するという戦果を上げ、その後の活躍は高校の歴史で学んだ通りデス。

しかし、戊辰戦争の頃、旧幕府軍の彰義隊を上野戦争で鎮圧するなど八面六臂の活躍で名をあげた大村益次郎ですが、意外にもその最期は早くに訪れます。

明治2年の1869年10月8日、京都の木屋町通りと御池通りの交差点を少し北に上がった場所にある旅館・宿水亭にて会食中、益次郎の急進的な軍事改革を嫌った反対勢力の元長州藩士ら8人の襲撃を受けてしまいます。大怪我を負いながら一命はとりとめたものの、シーボルトの娘・楠本イネなどの懸命な治療の甲斐なく、同年12月7日に45年の波乱の人生を終えることになるのでした。

この池は鋳銭司にある長沢池。この池のすぐそばに大村益次郎の墓所はありました。

左が大村益次郎の墓。

右はその妻・琴子の墓。

因みに琴子が亡くなったのは明治38年。

また墓所の近くには益次郎を祀った大村神社があります。

合掌。

長州の旅 3月24日午前:大村益次郎篇
長州の旅 3月24日午後:山口政治堂篇
長州の旅 3月25日午前:吉田松陰篇
長州の旅 3月25日午後:萩城下篇
長州の旅 3月26日午前:功山寺篇
長州の旅 3月26日午前:東行庵篇
長州の旅 3月26日午後:壇ノ浦篇

□□□ 東雲乃本 □□□□□□□□

★★★★★
花神
著者:司馬 遼太郎

猛烈に勉強がしたくなる
素晴らしい書デス。

二十歳までに読むべし。