2018年3月25日(日)午前
長州を巡る旅、実はまだ続てます(汗)
長州の旅 3月24日午前:大村益次郎篇
長州の旅 3月24日午後:山口政治堂篇
さて、前日の3/24の夕方、山口駅から路線バスに2時間ほど揺られて、高校2年の修学旅行以来31年振りとなる萩の街へ。
宿泊したのは東萩駅から徒歩1分の萩ロイヤルインテリジェントホテル。決して新しいホテルじゃないですが、宿泊費が朝食付きで1万円以下と安い割には温泉まで用意されてて、部屋も清潔な感じでお薦めデス。
で、翌朝早速訪れた場所が幕末の萩と言えばの松下村塾。
1842年、吉田松陰の叔父であった玉木文之進が自宅の八畳一間に私塾・松下村塾を開き、外叔・久保五郎左衛門が継承したあと、1857年に吉田松陰がこの建物で松下村塾を引き継ぎました。松陰はわずか2年ほどの間におよそ50名の塾生たちを指導したそうデス。
当時を偲ぶことができる八畳の講義室には松浦亀太郎(松洞)が描いた吉田松陰の画と座像がひっそり展示されています。
この松下村塾における松陰の教えの中でその後の日本に最も影響したとされる思想が「一君万民論」と「草莽崛起」。
「一君万民論」とは、ただ一人の君主(天皇)にのみ権威を認め、その他の万民には一切の差別・身分差を認めないとする思想。そして、「草莽崛起」とは、志を持った草の根の者たちが身分に関係なく力を合わせて改革を起こすという思想デス。どちらの思想も四民平等を基本とし、明治維新以降の日本の民主主義の礎になったとも言える思想ですネ。
さらに松陰は牢屋の中の罪人相手にさえも勉強する意欲をもたせたことは特筆すべきことかと。その方法とは他人より劣っている点を責めるのではなく、他人より優れている点に着目し、引き伸ばしてあげる教育方法だったそうデス。つまり個性を尊重することに重きを置いた教育者だったわけですネ。
松下村塾で学んだ著名な塾生たち。
萩という極めて小さな街で、これだけ多くの偉人たちを排出できた理由に、松陰という優れた教育者の存在は欠かせません。
松下村塾の隣りには松陰の実家である杉家の建物も現存されています。因みにこの家は非常に立派なんですが借家なんだそうデス。
その杉家の実家の中に松陰が謹慎していた三畳半の幽囚室があります。松陰はこの部屋であの予言書とも言える「幽囚録」を書いたというわけデス。
続いて松下村塾から場所を移して向かった先が・・・・・
自転車で東へおよそ20分の場所にある吉田松陰生誕の地。
つまり、もともとの杉家の自宅があった場所デス。
ご覧の通り萩城のあった指月山も一望できるほど絶景が眺められる山の中腹に位置しています。
また、高杉晋作草庵跡地という顕彰碑がありますが、実は長州藩から疎まれた高杉晋作が東行と名乗ってこの地で10年の隠遁生活を送ろうとした場所でもあるんデス。結局下関戦争の後始末のため、わずか2カ月で長州藩から呼び戻されることになるんですが。
そして、誕生地の隣りには吉田松陰と高杉晋作の墓所。
松陰の墓所には遺髪が、晋作の墓所には遺髪とへその緒が埋葬されているとのことデス。
なお、吉田松陰の正式な墓所は世田谷の松陰神社にあり、高杉晋作の墓所は下関の東行庵にあります。
さらには杉家や玉木家、吉田家、久坂家など杉家縁者の墓所もありました。
続いて向かった先は自転車で5分ほどのところにある東光寺。
毛利家の菩提寺であり、、、
奇数代の毛利家藩主が眠っておられます。
圧巻の毛利家墓所。
その他にも禁門の変の謝罪のため自刃した福原越後、益田親施、国司親相の3家老をはじめ、禁門の変・長州征伐の責任を感じて自刃した周布政之助など長州正義派の面々の慰霊墓所となっています。
また、木魚発祥の地としても知られており、、、
こんな木魚の原型が釣られています。
さ、まだまだ続きます。
長州の旅 3月24日午前:大村益次郎篇
長州の旅 3月24日午後:山口政治堂篇
長州の旅 3月25日午前:吉田松陰篇
長州の旅 3月25日午後:萩城下篇
長州の旅 3月26日午前:功山寺篇
長州の旅 3月26日午前:東行庵篇
長州の旅 3月26日午後:壇ノ浦篇