草薙剣を探しに壇ノ浦へ。

2018.03.26(日)午後


ちと古い話で恐縮ですが、今年3月に訪問した長州の旅、今さら最終回デス。ゴメンナサイ(汗)

さて、東行庵、功山寺にお参りした後、長州の旅 最後に訪問したのが、今から833年前の1185年4月25日源平合戦、最後の戦場となったココ壇ノ浦。

八艘飛び伝説を生んだ牛若丸こと源義経。

八艘飛び伝説とは平家随一の猛将・平教経に追われた義経が次々と8艘の船に跳び移って、その難を逃れたことに由来する。

平家随一の怪力を誇った平知盛。

知盛の最期は錨を担いで、「見るべき程の事をば見つ。今はただ自害せん」(栄枯盛衰まで様々な経験をもはやし終えた。あとは自害するのみだ)と言い遺して入水したと平家物語では語られている。

また、わずか6歳の安徳天皇が祖母・二位尼(平時子・平清盛の正室)に抱かれて入水したのもココ壇ノ浦とされている。

この時、二位尼は三種の神器のうち八尺瓊勾玉と草薙剣を、別の者が八咫鏡を身に着けて入水したそうで、八尺瓊勾玉と八咫鏡は木箱に収められていたため海上に浮かび上がってきたところを源氏側が運よく接収できた。しかし、草薙剣だけは懸命の捜索にも拘わらず海中深くに失われてしまったとされている。この深そうな海じゃとても見つけるのは無理でしょう。それ故に草薙剣の御神体だけは土御門天皇から順徳天皇に代替わりするときに伊勢神宮から新たに献上されたそうである。

因みに八尺瓊勾玉は皇居にある御所の剣璽の間に奉置されており、草薙剣は御神体が熱田神宮に、その分身である形代が八尺瓊勾玉と同じ剣璽の間に奉置されている。八咫鏡は御神体が伊勢神宮に、崇神天皇の時に作られた形代が皇居の賢所に奉置されているそうである。

万が一、壇ノ浦のこの海中深くに眠っているはずの草薙剣を発見できたら、歴史的な快挙であることは間違いない。

そして、壇ノ浦と言えば1863年と1864年の2回、長州藩とイギリス・フランス・オランダ・アメリカの列強四国との間に起きた馬関戦争でも知られている。

壇ノ浦の砲台ではないが、長府の前田砲台はご覧の通りあっさり連合国軍に占領されてしまう(涙)

最後この旅の締めとしてみもすそ川のロープウェイに乗り、標高286mの火の山公園へ。

関門海峡一望。

瀬戸内海も一望。

対岸に見えるのが田野浦。

最新の研究では、壇ノ浦の戦いの際、総大将の源範頼がこの陸地に陣取り、潮の還流で流されてきた平家軍の船めがけて範頼軍が弓を放てたことで勝利できたとも。

壇ノ浦古戦場跡も一望。

以上、草薙剣は発見できず、今更ながら長州の旅完結宣言。

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